【須坂陣屋概要】
豊臣秀吉の家臣・堀秀政の家老であった堀直正の
四男・堀直重が1615年(元和元年)に1万2千石で
須坂藩を立藩し、1617年(元和3年)に須坂陣屋は
その政庁として堀直升によって建てられています。
須坂陣屋は、現在の奥田神社から須坂小学校、
須坂東高校にかけて建っていたようです。
須坂の町は2001年に散策していますが、陣屋跡を素通り
してしまったので、2011年10月に須坂を再訪しました。
須坂の散策記はこちらです。
須坂に向かう際に乗車した
長野電鉄屋代線の乗車記はこちらです。
長野電鉄本線の須坂駅から東に
約1.5km、徒歩20分程です。
長野電鉄の乗車記は
長野電鉄の電車を須坂で下車し、東に
向かうと古い家並みが続いています。
その町並みの先に奥田神社があります。
その手前に陣屋稲荷がありました。
須坂藩の屋敷神として京都の伏見稲荷大社から
御祭神の分霊を勧請し、創建した神社です。
創建の時期は、二代藩主・堀直升、六代・直寛
そして九代・直晧の時と諸説あるようです。
この陣屋稲荷のすぐ先に奥田神社がありました。
この奥田神社は、幕末の戊辰戦争の際に、
下総で戦死した須坂藩士7名を祀る為に
1877年(明治10年)に創建された神社です。
江戸時代を通じ須坂藩の藩主だった堀氏は
今の愛知県稲沢市の奥田の出身で、元々は
奥田姓を名乗っていたので、その所縁で、
奥田神社と名付けられたのでしょうか。
須坂陣屋は奥田神社を中心に建っていたようです。
神社の南側には陣屋の鐘楼が移築されています。
この鐘楼は1782年(天明2年)に建てられたものです。
陣屋の北西の、浮世小路入口にあったそうです。
その場所は、旧上高井郡役所の建物の更に北側で
当時の須坂陣屋は予想以上に広い敷地だったようです。
奥田神社の東隣の須坂小学校の北側の
敷地境には石垣が続いています。
この石垣も当時のものだそうです。
奥田神社の西にある遠藤酒造場には
須坂陣屋の奧付門も残っています。
神社から遠藤酒造場に向かう際の様子です。
日が西に傾き、印象的な光景でした。
江戸時代の須坂神社にも毎日こうした
夕暮れが訪れていたことでしょう。
須坂の町並みの様子は こちら です。
こちらが遠藤酒造場に残る長屋門です。
当時は須坂陣屋大手門へと続く道の
脇奥付門として使われていたそうです。
また10代藩主直興公夫人寛寿院、
12代藩主直武公夫人寛栄院の居間
としても使われていたそうです。