備中高松城は、岡山市の西、
約10km程のところにあります。
築城時期ははっきりしていないそうですが、
備中松山城主・三村氏の家臣・石川氏が
毛利氏との境の地に築いたそうです。
1575年(天正3年)の戦いで、毛利氏が三村氏を
破った後は石川氏の家臣だった清水宗治が
毛利方として高松城の城主となりました。
足守川が流れる低湿地帯に築かれた水城です。
地図はこちらです→
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1582年(天正10年)、織田信長の命で
中国攻めの先鋒となった羽柴秀吉が
この高松城を攻めました。
高松城は周囲を深田や沼に囲まれた自然の要害ですが
秀吉は黒田官兵衛の策を取り入れ、お城の周囲に土塁を築き、
足守川の流れを引き込んで、備中高松城を水攻めにします。
その折、本能寺の変を毛利方に伝える
明智光秀の密使が秀吉方に捕まり、
秀吉は、城主・清水宗治の命と引き換えに
城兵を助けるという条件で講和を結びます。
清水宗治の切腹を見届けた秀吉は
備中高松城を後にして、京に引き返したのでした。
備中高松城を訪れる前に、秀吉が
水攻めの築堤跡に行きました。
JR吉備線の備中高松駅の
東300m程のところにあります。
蛙ケ鼻築堤跡と呼ばれる築堤跡は
僅か数十m程が残っていました。
僅か11日間で、延長3km堤が築かれたという事です。
現存する堤を築くだけでも大工事と思えるのですが、
これを3kmにもわたって、しかも僅か11日で築くとは
想像を絶するような大土木工事だったと思います。
この後、蛙ケ鼻築堤跡から、北西に
1km程離れた備中高松城に向かいました。
現在も水田の広がる低地に城跡がありました。
遠くから目印になる建物がないので、
ちょっと道に迷いかけましたが、
城跡は国の史跡となり、
公園となって整備されていました。
白壁のなまこ壁の建物は資料館です。
この資料館は二の丸と三の丸の間に建っています。
本丸へは、蓮が一面に生い茂った
池に架かる橋を渡っていきます。
上の写真、木の生い茂っている辺りが
備中高松城の本丸跡です。
この本丸の一画に、清水宗治の首塚がありました。
水攻めに遭い、家臣らの命を救う為に
自腹を切る決意をした、清水宗治。
しかし、その裏では本能寺の変が起きていて
秀吉が、一刻も早く兵を引きたがっている・・・
清水宗治がその事を知ったらと思うと、
彼の首塚を見て、何とも言えない
感情が押し寄せてきました。。。
浮世をば 今こそ渡れ
武士(もののふ)の
名を高松の 苔に残して
清水宗治の辞世の句です。
備中高松城からJRの駅に向かう途中、
大きな鳥居の下をくぐりました。
備中高松城の北、3km程のところにある
高松稲荷の大鳥居です。
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