広島城

Hirosima Castle, Japan

登城日: Aug.'84, Dec.'06 & Dec.'10

【広島城 概要】

広島城は、毛利輝元が1589年(天正17年)から
1599年(慶長4年)に掛けて築城したお城です。

毛利氏は、鎌倉幕府の重臣・大江広元を祖とする名家で、
毛利元就が中国地方のほぼ全域に勢力を拡大します。
元就の孫・毛利輝元が織田信長と対立しますが、
本能寺の変の後、輝元は秀吉に臣従します。

その後、秀吉に大阪城や聚楽第に招かれた輝元は
近世城郭の利点を悟り、太田川の三角州に
急遽、平城の築城を決めたそうです。

こうして、築城された広島城ですが、
完成した翌年に起こった関ヶ原の戦いで
西軍の総大将として敗者となった輝元は
領土を防長二ヶ国のみに削られ、
萩に移封されてしまいます。

輝元が広島城主だったのは、僅か一年・・・
その後、関ヶ原で功労が認められた
福島正則が広島城主になります。

輝元が築いた広島城は、皮肉な事に西に
追いやられた毛利家に対する備えとしての
役割を持つ事になったのです。
その為、福島正則は、入城直後の
1601年(慶長6年)から8年間に渡り、
拡張の普請を行っています。

その福島正則ですが、幕府の命に叛いて
お城の修復をした罪を問われ、改易となり、
その後、和歌山城主だった浅野長晟(ながあきら)が
城主となり、明治に至るまで浅野氏が広島城主となります。

【広島城へのアクセス】

広島城は広島電鉄の紙屋町の停留場から
北に約5分程の所に位置しています。

広島駅から紙屋町の停留所まで約15分程です。
運転本数は多く、料金は150円です。

【広島城登城記】

広島城は、かつては西は太田川、南は原爆ドームの北隣の
広島市民球場辺りまでの広大な城郭を有していましたが、
今は、内堀に囲まれた二の丸と本丸が遺構として残っています。

原爆ドームから美術館を抜け地下道を通り、
広島城の案内表示に従って歩いていくと
急に広々としたお堀りの向こうに
門構えや櫓が見えてきました。


撮影: 2010年12月

これらの建物は、左から二の丸表御門、
平櫓、多聞櫓そして2層の太古櫓で、
1994年(平成6年)までに江戸時代の
様子に復元されたものです。

生憎、小雨が降っていますが、
近代的な建物が建ち並ぶ21世紀の広島に
この周囲だけが時代の流れに残されたかの様です。

お堀はかなり広く、本丸を取り囲む内堀です。


撮影: 2010年12月

この写真の堀の向こう側は
総石垣で囲まれた本丸です。

二の丸表御門と平櫓、そして
表御門に繋がる木橋の様子です。


撮影: 2010年12月

当時の物々しい警固の様子が思い浮びます。

復元された平櫓や多聞櫓、太鼓櫓は
内部に入る事が出来ます。

復元された城郭建築の内部を訪ねるのは、
まさにタイムトラベルしたような感じがします。


撮影: 2010年12月

これは多門櫓と太鼓櫓の様子です。

平櫓には広島城の解説や、
毛利氏の歴史に関する展示がありました。


撮影: 2006年12月

毛利元就が隆元、吉川元春、小早川隆景に宛てた
「三子の教訓」の複製も展示されていました。

三人の孫が力を合わせて毛利家を
守り立てていくようにという遺言で
有名な「三本の矢」の逸話が
出来た元になった手紙です。

その後の歴史を見てみると、関ヶ原の戦いの際、
毛利輝元が西軍の総大将になったものの、
吉川元春の3男・広家と小早川隆景の養子・秀秋の
東軍への裏切りによって、勝つべき戦いに敗れ、
毛利氏の凋落を招いた事を考えると、
歴史の綾を感じます。

多聞櫓を通り、太鼓櫓も訪れた後に、
小ぶりな二の丸を抜けて本丸へと向かいました。

関ヶ原以降の近世城郭では、広い二の丸に
各藩の政庁ともなる御殿が二の丸に建てられ、
行政の中心になっている例が多いのですが、
広島城の二の丸は規模が小さく、馬出と呼ばれる
本丸の防御の為だったように思います。

二の丸から本丸への土橋の様子です。


撮影: 2010年12月

本丸に入ったところには、当時は、
石垣を跨ぐように本丸中御門が
建てられていました。

本丸は広々とした空間が広がっています。
左手奥に、護国神社が見えました。


撮影: 2010年12月

広島城の本丸は北側が一段高くなっています。
江戸時代には御殿が建ち並んでいました。


撮影: 2010年12月

明治以降は、ここに大本営が置かれ、
軍の中国・四国地方の統括拠点になっていたそうです。


撮影: 2010年12月

広島城に残る大本営の跡です。
こうしたものが広島に置かれていた為に
原爆投下のターゲットになったと思います。

今は、散策路と所々に樹木が植えられ、
静かな公園といった雰囲気です。


撮影: 2006年12月

所々に紅葉した樹木も見られました。

そして本丸の西北の隅に、
天守の礎石が残されていました。


撮影: 2010年12月

東西12間、南北九間の広さだったようです。

天守閣はそのすぐ近くに聳えていました。
広島城の天守は、5重5階の大きな天守で、
豊臣秀吉が築いた大阪城の天守に
匹敵する規模だったそうです。


撮影: 2010年12月

天守の南と東側には、渡櫓で繋がれた
3重3階の小天守を備えた連結式天守でした。

この広島城天守は明治後も残されて
国宝にも指定されていましたが、
原爆投下時の爆風により、一瞬の間に
破壊されてしまったそうです。

1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリート製で
外観復元されています。
天守の壁は黒塗りの下見板張りで、
白漆喰の姫路城と比べるとやや古風な趣です。

天守閣の内部は資料館になっています。
最上階の廻縁からの眺めです。


撮影: 2010年12月

上の写真は北東角の内堀の様子です。
下は、南側の眺めです。


撮影: 2010年12月

そして、こちらは東側の眺めです。


撮影: 2010年12月

木々の生い茂る本丸と内堀が残るだけの広島城ですが、
往時には、99もの櫓が建ち並んでいたそうです。
壮大な城郭の眺めが楽しめた事でしょう。

福島正則が改易された事は先に記しましたが、その理由は、
洪水で被害の出た石垣や櫓を修復しようと幕府に許可を
申し出たのですが、なかなか許可が下りない事に業を煮やし、
許可の出る前に修復し、さらには、新たに普請した石垣と
櫓の破却の命令をしっかり履行しなかった為だそうです。

福島正則が幕府から破却の命令を受け、
形式的に破却した石垣が本丸の東北の隅に
残っているというので見てきました。


撮影: 2006年12月

これがその石垣です。
手前の石垣が崩された石垣で、切り込みハギと
呼ばれる新しい石垣の積み方をされています。

石垣の真ん中あたりに木が立っていますが、
そこから奥は野面積みの古い様式の石垣で
そこは毛利輝元の築城の際の石垣だそうです。

福島正則の改易は、豊臣子飼いの武将に対する
徳川家の陰謀とも言われていますが、許可を得ずに
城の修理をするならまだしも、その後の廃却命令に
従わなかったとなると、時代の変化を感じられなかった
福島正則の落ち度と言われても仕方ないでしょう。

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