苧綿櫓から本丸へ
大洲城への最寄駅は伊予大洲駅です。
宇和島から特急「宇和海」で伊予大洲に着き、
さっそく大洲城を目指しました。
JR四国 特急「宇和海」の乗車記はこちらです。
伊予大洲城から南に向かうと、
肱川の畔に出ます。
対岸の丘の上に、大洲城の
復元天守が見えていました。
端正なその姿は、とても綺麗です。
黒い下見板張りの上に白壁が見えていますが、
この白壁が光るように輝いているのが印象的でした。
その左手の肱川近くには苧綿櫓が見えていました。
肱川の対岸から、天守の姿を堪能し、
肱川橋を渡っていよいよ大洲城に向かいます。
肱川橋からの大洲城の眺めです。
背景になだらかな高山寺山が見えています。
この肱川は、大洲城築城の際に、人柱となった
「おひじ」という娘の名前から付けられたそうです。
この肱川に沿って大洲城に向かうと、
苧綿(おわた)櫓に出ました。
この苧綿櫓は、幕末の1843年(天保14年)に
再建された櫓で、重要文化財に指定されています。
この苧綿櫓から、一旦街中に戻り、
郵便局の角を曲がって大洲城を目指しました。
二の丸跡に建っている市民会館に向かう道を
歩いていると、道端に石垣を見かけました。
この石垣は、二の丸大手門の櫓台の石垣です。
当時は、二の丸の南の堀に面して
枡形状の門があったそうです。
今は堀もすっかり埋められて住宅が建ち並び、
当時の枡形門の様子を思い描くことは
難しくなっています。
この二の丸大手門を過ぎると、
下台所越しに、本丸天守が聳えていました。
上の写真、右側に写っている
白壁の建物が下台所です。
下台所周辺は公園の様に整備されているので、
窓の少ない下台所の建物は、一見、
公園の公衆トイレの様でもありましたが、
これはれっきとした現存の建物です。
下台所のある小公園の左手に白い土塀と
石垣に挟まれた登城口が続いていました。
当時、石垣の下の曲輪には表御殿が
石垣の上には奥御殿が建っていました。
奥御殿跡には、天守閣の礎石と、
その下から発掘された建物の
礎石が並べられていました。
奥座敷のあった曲輪から更に坂道を上ると
本丸の高石垣が迫ってきました。
この石垣の西側に、二の丸上段の
広い曲輪が開けていました。
二の丸上段には中江藤樹の像がありました。
中江藤樹は、江戸時代初期の陽明学者で、
10歳から27歳まで、この大洲城下で
暮らしていたそうです。
二の丸上段から眺める大洲城の
復元天守と高欄櫓です。
天守の堂々とした姿が、とても印象的です。
天守の下の白壁の建物は、御門番長屋です。
当時は、曲輪内に仕切り門があり、
その門番が詰めていた建物だそうです。
この二の丸上段の北側は肱川に面して湿地帯が広がり、
そこに向かう途中に搦め門跡がありました。
湿地帯は、往時の内堀の跡で、
今は菖蒲園になっています。
ここから二の丸は本丸の北側に回り込んでいます。
その一画の西の隅に玉櫓がありました。
その櫓跡の様子です。
玉櫓は二重の櫓で、東隅には鉄砲櫓がありました。
ここから眺める天守の姿です。
本丸の石垣が二段に分かれています。
この本丸北側の曲輪からは、肱川の流れや
本丸北側の肱川に面した切岸の様子が見えていました。
ここには石垣は築かれていなかったのか、
山城の様な様子でした。
"大洲城"のTopに戻る
井戸櫓から本丸へ
二の丸からいよいよ本丸へと向かいます。
二の丸から一段と高く、石垣で囲われた
本丸へと続く登城路です。
石垣の間の登城路は、今は舗装された
坂道になっていますが、当時は
石段が続いていたと思います。
この坂道を上ると、2段に分かれている
本丸の下段にある井戸曲輪がありました。
井戸曲輪には、その名の元になった
大きな井戸が残っていました。
井戸の直径は3.8mもあり、国内最大級だそうです。
金網が被された井戸を覗いてみましたが、
水があるかどうかは、わかりませんでした。
井戸曲輪から仰ぎ見る復元天守です。
復元天守を仰ぎ見ながら暗り門跡の
石垣の脇を抜け、南側に向かいました。
本丸下段の南側は、広い郭が広がっています。
この南面には、2重のかま櫓が建っていました。
かま櫓跡からは、二の丸の郭が
手に取るように見えています。
左側は下台所、右の写真は奥御殿跡の様子です。
ここから、暗り門跡を通り、本丸上段へと向かいます。
この登城路も舗装され坂道になっていますが
当時は、石段だったと思われます。
更に当時は、正面に石垣があり、
櫓門がその上に載っていたそうです。
暗り門の中で左に曲がり、
本丸に通じていたそうです。
暗り門跡を抜け、本丸に残る高欄櫓や
復元天守そして台所櫓を眺めながら
緩やかな坂道を登っていきました。
こうして、本丸の上段に辿り着きました。
砂利が敷く詰められた本丸の向こうに
なだらかな円錐形の冨士山が見えていました。
この本丸の東側からは、肱川の流れが良く見えました。
左の写真はJR四国・予讃線の橋梁で、
写真右には先ほど渡った肱川橋が見えています。
丁度、特急「宇和海」が鉄橋を渡って行きました。
JR四国 特急「宇和海」の乗車記はこちらです。
夏の陽射しを浴びて緩やかな肱川を眺めた
後に、大洲城の復元天守に向かいました。
天守と高欄櫓、そして台所櫓からなる
複合連結式天守群です。
大洲藩の石高は6万石。
藩の規模に対して、立派な天守だと思います。
"大洲城"のTopに戻る
本丸及び復元天守
これからいよいよ大洲城の天守群に入ります。
まずは、現存の台所櫓に入りました。
台所櫓に展示されていた天守雛型です。
これは復元天守の木組みを1/10に
縮小して制作されたものですが、
大洲城には江戸時代に天守が
建てられた際の天守雛型が現存し、
それが天守復元に役立ったそうです。
こちらは台所櫓内部の様子です。
台所櫓は、1857年(安政4年)の大地震で大破した為、
1859年(安政6年)に復元されています。
台所櫓には台所を思わせる土間や
煙出し用の格子窓が開けられているそうです。
一旦、復元天守の中に入った後に、
天守の南にある高欄櫓に向かいました。
高欄櫓も1857年(安政4年)の大地震で大破し、
こちらは1860年(万延元年)に復元されています。
台所櫓も高欄櫓も、共に重要文化財に指定されています。
そして、復元天守です。
この天守は2004年(平成16年)に復元されています。
これは天守の吹き抜け構造の様子です。
この天守は、天守雛型が残っていた事と、
明治時代の古写真が残されていたので、
当時の姿を木造で再現出来たそうです。
オリジナルの天守は、1888年(明治21年)頃に
解体されていますが、解体の理由は、
この吹き抜け構造が原因だったようです。
天守から眺める高欄櫓です。
そして復元天守最上階の4階からの眺めです。
下左の写真は、大洲城西側の眺め、
そして下右の写真は、北側の眺めです。
やはりこの肱川の眺めは
とても心落ち着くものでした。
こちらは、大洲城東側の様子(下写真左)と
南側の様子です(下写真右)。
大洲城の南には、三の丸南隅櫓も
小さく見えていました。
復元天守の後に、この三の丸
南隅櫓に向かいました。
大洲城南にある大洲小学校の校庭越しに
眺める南隅櫓と天守の様子です。
南隅櫓の下の校庭は、
当時は堀だったところです。
校庭の西側、一段と高い位置にある
散策路を通って、南隅櫓に向かいました。
散策路から眺める三の丸南隅櫓の様子です。
この櫓は1766年(明和3年)に再建されたもので、
大洲城に残る建物としては最古のものだそうです。
"大洲城"のTopに戻る
"日本全国お城巡りの旅"に戻る
Shane旅日記 日本編に戻る