岸和田城は「だんじり」の街として
知られる岸和田市にあるお城です。
南海電車で和歌山に向かう途中、
進行右手の車窓からも見る事が出来ます。
地図はこちらです→
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1334年(建武元年)に楠木正成が摂津・河内
そして和泉三国の守護になると、一族の和田高家に
命じて築城させたのが岸和田城の始まりだそうです。
当時の岸和田城は現在の位置とは異なっていたようですが、
1378年(永和4年)に山名氏清が和泉守護となった頃に
現在の地にお城を移したようです。
室町から戦国時代にかけて城主が何度も代わるのですが、
1583年(天正11年)秀吉が家臣の中村一氏を城主として、
紀伊の根来・雑賀(さいが)衆の抑えとし、1585年(天正15年)
根来・雑賀衆との戦いに勝利すると、小出秀政を城主とし、
この小出氏の時代に城郭の整備が始まったようです。
江戸時代に入っても小出氏が城主を勤めていましたが、
1619年(元和5年)に松平氏が丹波篠山から移封され、
1640年(寛永17年)には岡部宣勝(のぶかつ)が
高槻から移封となり、以降明治まで岡部氏が
岸和田藩の藩主となっていました。
岸和田城は南北10間5寸、東西9間5尺6寸の
敷地に五重の天守が建っていました。
昔の絵図によると高さは18間(約32m)もあったそうです。
5重の天守の建つ本丸の西に二の丸、
そして、本丸と二の丸を取り囲むように
二の曲輪、三の曲輪が取り囲んでいたようです。
この岸和田城に2007年1月29日に行ってきました。
最寄の南海電鉄の蛸地蔵駅から
古い町並みを歩いて行きます。
車内から見えたお城の凡その位置を目指し
歩いていると、不意に三の丸神社に行き当たりました。
この三の丸神社は岸和田だんじり祭りの
発祥のお宮さんということです。
清めの水の盥漱盤(かんそうばん)には
元禄16年9月27日の刻字があるそうなので、
古くからの神社と思います。
境内のケヤキの木も見事でした。
趣きのある岸和田の町。
狭い路地に昔ながらの住宅が建ち並んでいます。
この町並みを抜けると、
岸和田城が目の前に現れました。
1954年(昭和29年)に模擬復興された
三重の天守閣と隅櫓が見えています。
内堀は当時のまま残り、本丸と二の丸が
千亀利(ちきり)公園として整備されています。
公園の名前は岸和田城の別称は
「猪伏山(いぶせやま)ちきり城」からきています。
本丸と二の丸が連なった形が「ちきり」という
機(はた)の縦糸を巻く器具に似ている事からついたそうです。
二の丸に建てられた心技館の建物。
多聞櫓として1992年(平成4年)に建てられたようです。
下の写真は1969年(昭和44年)に建てられた隅櫓です。
史実に基づいて外観復元されたものなのか、
判りかねますが、本丸の石垣の上に
聳える姿は堂々としたものです。
二の丸からみた本丸。
本丸の中に入ろうと思ったのですが、
この日は休館日で門が閉ざされていて、
本丸の中には入れませんでした。
休館日で天守閣や櫓の中に入れなかった事は
何度かあったのですが、本丸のなかに入れなかったのは
これが初めての事です。
本丸に入れなくても登城した事になるのか
どうかは判りませんが、内堀の周囲を廻って
お城を眺め、それで登城したことにしようと思います。
これは岸和田城北側の内堀の様子です。
内堀の周囲には遊歩道が整備されていて、
柳の木がいい雰囲気を醸し出しています。
そして、東側に来ると、日を浴びた
岸和田城が綺麗に見えていました。
快晴の青い空に聳える天守閣が綺麗です。
岸和田城の本丸の周囲には
土壁ですべて囲われていて、
引き締まって見えます。
写真左側の石垣のところには階段がありました。
当時は、階段を降りたところに内堀を渡る
橋が架けられていたものと思います。
東南の角からみた岸和田城です。
内堀が広く、湖に浮んでいるような感じもします。
天守閣の石垣の下には幅1mほどの空き地が見えます。
これは犬走りといい、他のお城では見られない特異な構造です。
守りを考えると、敵兵に上陸のスペースを与えるので
マイナスですが、どうも石垣が崩れやすい石なので、
このような構造になっているそうです。
それにしても、この岸和田城の眺めは
天守閣や石垣が内堀にも映り、
とても爽やかな光景でした。
岸和田城の南側には五風荘という庭園があります。
旧岸和田城内の薬草園の跡地に
造営された広壮な回遊式日本庭園で、
正門は東大寺の塔頭中性院表門を
移築したものだそうです。
残念ながらこの五風荘もこの日は休園でした。
岸和田城は、本丸に入れなかったので、
もう一度、また訪れてみたいです。