三木城
Miki Castle, Japan
登城日:
2007. 10. 23
三木城は1492年(明応元年)頃に
別所則治によって築かれたお城です。
家督を廃せられていた播磨の守護・赤松政則を
擁して上京し、家督を復活させると共に
数々の武功を立てたそうです。
その後、播磨では赤松氏や尼子氏、
そして三好氏との間で戦が起きています。
三木城も何度も戦に巻き込まれ落城していますが、
その都度補強され、難攻不落の城郭となったようです。
三木城の城郭図です。
その後、1570年(元亀元年)に家督を継いだ
別所長治は織田信長に従い、毛利攻めの先鋒に
任命されるのですが、突如反旗を翻します。
この謀反によって別所長治の居城・三木城は
秀吉の軍勢によって包囲されてしまいます。
別所方は7,500人もの将兵が三木城に詰め掛けたものの
支城を陥とされ食料の確保が難しくなってしまいます。
後に「三木の干し殺し」と呼ばれるようになった
二十ヶ月にも及ぶ凄惨な籠城戦の末に、
別所長治は城兵の命と引き換えに自刃し、
三木城を明け渡します。
別所長治の享年は23歳であったといいます。
三木城は、現在の三木市の中心部に近い
美嚢川の南岸の台地にあります。
地図はこちらです→
|
|
|
現在は、上の丸(本丸)部分が
公園として残されています。
神戸の新開地から神戸電鉄に乗車し
最寄の三木上の丸駅で下車しました。
神戸電鉄の乗車記はこちらです。
駅を出てすぐの左手の階段を上って行きました。
美嚢川から三木城のあった高台へと至る階段で、
途中に、三木城の堅牢な守りを支えていた
北側の崖が続いているのが見えていました。
階段を上りきると、三木城址の
上の丸公園になっていました。
振り返って見ると、神戸電鉄の線路がすぐ近くにあり、
遠く播磨の平地が続いているのが見えていました。
崖に沿って土塀が復元されていました。
多分、秀吉と別所長治が戦っていた頃の
土塀とは異なる模擬復元の様に思いますが
白壁の土塀があると雰囲気は引き締まります。
その土塀の脇に「かんかん井戸」がありました。
石を投げ入れると「カンカン」という音が
するところからこの名が付けられたそうです。
深さ25mもある立派な井戸で、
籠城戦の際にはこの井戸の水が
多くの城兵の喉の渇きを潤したことでしょう。
この井戸からは別所長治公
愛用の鐙が出土したそうです。
そして、本丸には真新しい別所長治の
騎乗姿の像がありました。
毎年5月5日には別所公春まつりが開かれ、
三木の大恩人として長治は地元では
今なお根強い人気があるようです。
その近くの石碑には長治公の
辞世の句が刻まれていました。
"今はただうらみもあらじ諸人の
いのちにかはる我身とおもへば"
23歳の若さで、城兵の命と引き換えに
妻子と共に命を絶った長治公、
戦国の世の習いとはいえ、痛ましい限りです。
近くの雲龍寺に別所長治公の首塚があるそうで、
この後に立ち寄ってきました。
雲龍寺の様子は三木のページを参照下さい。
本丸には小高い天守跡もありました。
三木城は江戸時代になった後は
姫路城主・池田輝政が支配していましたが、
1615年(元和元年)の一国一城令で廃城となり、
その建物は明石城の資材に使われたそうです。
古地図を見るとこの天守跡には
当時櫓が建っていたようで、
この櫓も明石城に転用されたのでしょうか。
本丸の南側は、発掘調査中でした。
発掘調査で、当時の城郭の様子が
より明確になれば、と思います。
本丸の西側には、二の丸の跡地に
図書館や美術館、そして
古い校舎が建っています。
その二の丸との間は切れ込んだ
窪地に道路が通っていました。
当時は本丸と二の丸を隔てる堀だったようです。
そして旧二の丸の様子です。
図書館や美術館とその利用者用の
駐車場があるだけで、お城の遺跡
らしいものはみあたりませんでした。
古い校舎が昔の小学校を思い出させて
懐かしかったです。
三木城を訪れた後は、別所長治公の
首塚のある雲龍寺を目指しました。
雲龍寺の様子は三木のページを参照下さい。
"日本全国お城巡りの旅"に戻る
Shane旅日記 日本編に戻る