坂本城
Sakamoto Castle, Japan


登城日:
2007. 04. 29






坂本城は比叡山の城下町・坂本に程近い
琵琶湖の畔に、1572年(元亀3年)頃に築かれた
水城で、明智光秀が城主となったお城です。

この坂本城は比叡山の抑えだけでなく、
信長は船で安土城からこの坂本城へ移動して
京に入っている事からも、信長の畿内平定にとって
重要な拠点となるお城だったと思います。

地図はこちらです→ Mapion

坂本の里坊が立ち並ぶ地域からレンタサイクルで
借りた自転車を飛ばし、坂本城に向かいました。

京阪電車坂本駅前の坂道を東に向かって下り、
JR湖西線のガードをくぐり、国道161号線で
南に折れ、1km程下ったところが坂本城跡です。

坂本の町の様子はこちらです。
京阪石山坂本線の乗車記はこちらです。


国道の脇にある会社の保養所の前に
坂本城本丸跡の碑がありました。



周囲は国道沿いにガソリンスタンドや、
レストランが立ち並び、この碑が無ければ
ここに昔、お城があったとは
とても思えない雰囲気です。

この碑の先に、坂本城址公園があるので、
そちらに足を延ばしてみました。



城址公園に立つ立派な石碑。
そして明智光秀の立像です。



明智光秀の出自は定かではないようですが、
今の岐阜県の豪族・土岐氏の一族だったと
言われているようです。

一説には信長の正室・濃姫と従兄妹同士で、
その縁で信長の家臣になったそうですが、
それ以前には将軍・足利義昭に仕えていました。

当時一流の文化人との交流も深く、茶の湯、
連歌そして詩歌にも造詣が深かったそうです。


この坂本城は明智光秀が初めて城持ち大名となったお城ですが、
坂本城の遺構はここにも殆ど残っていませんでした。
城址公園には100m四方程度の広場があるだけです。



お城の遺構らしきものは
わずかに残る石垣の列だけです。



そして、この城址公園の前には
琵琶湖が広がっています。
多くの釣り船が出て、GWの晴天の
休日をのどかに過ごしていました。

広々とした海の様な琵琶湖ですが、
波は穏やかで、遠くに近江冨士、
三上山が見えていました。




1568年(永禄11年)、将軍・足利義昭を奉じて
京に入った織田信長ですが、当時の信長は
まだ決して安定した状態にはありませんでした。

妹、お市の方が嫁いだ浅井長政が反旗を翻し、
朝倉義景と組み、比叡山の僧兵と連携して
圧力を加え、更には伊勢の一向一揆、
石山本願寺との間にも抗争が起こっていました。

そんな信長が1571年(元亀2年)、突如
比叡山の焼き討ちを行ったのです。

社寺堂宇500余棟が焼かれ、僧俗男女
3,000人が首を刎ねられたということです。

延暦寺焼き討ちの際に、坂本の住民も多くが
虐殺されており、その地を治める事となった
光秀の苦労は如何ばかりだったろうと思います。


城址公園の南側に、湖に向かって
赤い鳥居が建っていました。



このあたりは三津浜と呼ばれ、
毎年4月14日の日吉大社の山王祭で
神輿を船に乗せる船渡御が
ここから唐崎神社の沖まで
行われているそうです。


信長は比叡山の焼き討ちを行った際、
日吉大社も灰燼に帰したそうなので、
坂本城の城郭内にこのような
神事が行われる場所があったとは
意外な感じがしました。

これも比叡山焼き討ち後の坂本の町を治めるため
光秀がその神事を大切に守り通した為でしょうか。

日吉大社の様子はこちらです。


坂本城の遺構は殆ど残っておらず、
天守は琵琶湖に沈んだとも聞いたので、
本丸跡の碑まで引き返しました。

この会社の裏側の琵琶湖畔に出ようと、
葦の草むらを掻き分けて湖に向かいました。

思わぬ人の侵入に驚いたのか、
葦原に潜んでいた蛇が逃げ出していきました。



葦原に琵琶湖の穏やかな
湖面が広がるのどかな景色で
この波の下に城郭があるとは
想像する事が出来ませんでした。


坂本城の遺構としては、坂本の町の北にある
西教寺に城門が移築されているそうです。
この西教寺には明智光秀のお墓もあり、
この後、行ってみることにしました。

西教寺の様子はこちらです。




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