真田丸・大坂城出丸
Sanadamaru Fort, Osaka

登城日:
2011.8.17 & 2020.4.4

【真田丸 概要】

真田丸は、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で
大坂方の真田信繁(幸村)が築いた出丸です。

真田幸村の人気と、大坂の陣での活躍によって
真田丸の事は広く知られ、NHK大河ドラマでも
2016年に取り上げられ、人気を博していました。

その真田丸がどこに築かれたのか、その場所は長い間
比定されていませんでしたが、2016年に松江で新しい絵図が
発見され、今は大阪明星学園にほぼ確定しているようです。

以前は、東にある三光神社や、大阪明星学園の
東隣にある心眼寺などが候補になっていました。

三光神社の様子は こちら です。

真田丸は、大坂城の南、総構の濠の南に築かれました。
上町台地の一角に、周囲に堀を築いて砦としています。


撮影: 2011年5月

上の真田丸絵図は大阪高低差学会ブログより拝借しています:
http://osakakoteisa.blog.fc2.com/blog-entry-41.html

この図で、真田丸に縦に3つお寺が並んでいますが、
これが大阪明星学園の東側にある、心眼寺、興徳寺
そして大応寺にあたると思われます。

こちらは現地にあった真田丸の推定場所です。

江戸時代の絵図に比べると、南木が狭く、
東西に細長い形になっています。

現在の地図と見比べてみると、真田丸の
真ん中を東西に横切る道が、大阪明星学園の
南側の道に相当するのでしょうか。

ちなみに真田幸村は、大坂冬の陣でこの真田丸に
兵5,000を率いて陣を敷き、前田利常の軍勢
12,000などを相手に戦い、局地的な戦いで
勝利を収めています。

大坂冬の陣では、淀殿が徳川方と不利な講和を結び、
この真田丸も戦いの後、破壊されています。

この真田丸跡には、2011年8月と
2020年4月に訪れました。

【真田丸へのアクセス】

真田丸は、大阪環状線・玉造駅の東、
歩いて約10分程の距離にあります。

【真田丸散策記】

三光神社の北側の階段を下り、鳥居を
抜けると左手に小さな公園があります。

三光神社の散策記は こちらです。

三光神社は上町台地の東端にあります。
大坂城への抜け穴とされる洞窟もあり、
以前は真田丸の候補地になっていました。

この公園は宰相山西公園といい、
春には綺麗な桜が咲いています。


撮影: 2020年4月

宰相山は、この南にある小高い丘です。
宰相という名前は、大坂冬の陣の際に、
真田丸を東側から攻めた徳川方の前田利常が
加賀宰相と呼ばれた事に由来しているようです。

となると、三光神社の洞窟は徳川方が掘った事になり、
三光神社が真田丸跡だったという可能性も低くなります。

宰相山西公園から西に向かうと、
次の交差点に小さなお堂がありました。
善福寺のお堂です。


撮影: 2020年4月

お堂の前には「どんどろ大師」という
提灯が掲げられ、銅像もありました。


撮影: 2020年4月

「どんどろ大師」は、歌舞伎「傾城阿波の鳴門」で
出てくる場面の舞台になっているという事です。

この角を左に折れ、南に進むと、
上町台地への上り坂になります。


撮影: 2020年4月

右手は大阪明星学園の校庭です。
左手にいくつかお寺が並んでいます。

一番手前のお寺が、心眼寺です。


撮影: 2020年4月

1622年(元和8年)に、創建されています。
江戸時代から真田信繁の菩提を弔っているとの事で、
門の扉には真田の旗印・六文銭が刻まれていました。


撮影: 2011年8月

2014年(平成26年)には、境内に
真田信繁のお墓も建てられています。


撮影: 2020年4月

以前はこの心眼寺も真田丸の候補地でした。
候補地と言っても5,000人の兵を収容していた
出城ですので、心眼寺の敷地では狭すぎます。

心眼寺の東は、200m程離れた三光神社まで
丘陵地が続いており、2011年に訪れた際には、
心眼寺から三光神社にかけての高台が
真田丸跡ではないか、と思っていました。

近年では真田丸の場所は、心眼寺の西側にある
大阪明星学園の敷地周辺と比定されています。

心眼寺から眺める大阪明星学園の校庭です。


撮影: 2020年4月

道路沿いに真田丸表彰碑がありました。


撮影: 2020年4月

表彰碑の脇から、真田丸の主郭であった
校庭を眺めてみました。


撮影: 2020年4月

いまはテニスコートになっていて、平坦に
なっていますが、この辺りの元々の地形は、
北側の善福寺に向けて、下り坂だったと思います。

この平地に整地されたのが、学校を建てた
際なのか、真田丸を築いた際の地形を
利用したのかが気になります。

心眼寺から南側に坂道を上ると、
興徳寺、大応寺とお寺が続きます。


撮影: 2020年4月

興徳寺と大応寺の間には小路があり、その道を東に
進むと、真田山小の校門へと行くことが出来ます。


撮影: 2011年8月

その校門前からは興徳寺の墓地が見えていますが、
この辺りが、真田丸の東側の空堀があった辺りです。

心眼寺前の道を、興徳寺と大応寺を過ぎて、
南に進むと信号のある交差点に辿り着きます。

上で紹介した大阪高低差研究会のブログでは、
この交差点を東西に通る道が、真田丸の南の端で
道に沿って空堀が東西に続いていたとしています。


撮影: 2020年4月

一方、心眼寺の案内板にあった地図では、
この道路の南側まで真田丸だったとしています。

交差点から南側を眺めた様子です。
上町台地が、この先も続いています。


撮影: 2020年4月

実際には、心眼寺から坂道を上って南へと
続く道路に沿って、尾根の様に台地が続いて
いますが、西側は先ほどの交差点から一つ
先の通りから南側は一段低くなっています。

下の写真は、大阪明星学園の南側の通りの
一つ南側の通りから南側を眺めた様子です。
一段低い位置に高津高校の校庭がありました。


撮影: 2020年4月

この地形が、当時の地形を著しているとすると、
空堀は、この一段低くなっている所の境に
築いたと考えるのが自然な様に思います。

高津高校の校庭を眺めた後、北に進み、
大坂明星高校の南西角の交差点に向かいました。

真田丸の南端の空堀がどこにあったのか、
今ではその痕跡は全く残っていません。


撮影: 2020年4月

南西角の交差点の東側には大六院の楼門があります。
西側は、上町台地の西端になっていて、交差点の
西側の円珠庵の先は下り坂になっています。

松江で発見された絵図によると、真田丸西側の堀は、
台地の端の東側に掘られていたようですので、
西端は、大阪高低差学会のブログに示されて
いる様に、この交差点だったように思います。


撮影: 2020年4月

上の写真は、大阪明星学園南西角の
交差点から北側を眺めた様子です。

緩やかな下り坂となっており、
堀跡は全く残っていませんでした。

こうして、真田丸跡を一通り訪れてみました。

その痕跡は全く残っていませんでしたが、
大阪明星学園がその跡地だったという事は
ほぼ間違いないようですので、400年前に
真田信繁(幸村)が、この地で、徳川軍を
打ち破ったという事に思いを馳せながら、
散策する事が出来ました。

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