亥鼻城 (千葉城)
Ruins of Inohana Fort, Japan
登城日:
2009. 11. 04
亥鼻城(猪鼻城)は、千葉都市モノレール県庁前駅の
東300m程の台地上に有った古城です。
1126年(大治元年)に千葉氏の祖・千葉常重が
築城されたものと言われています。
従来はこの台地上の古城に、かつて下総・上総をも治めた
千葉氏の本拠地があり、千葉城とも言われていました。
ところが、この台地上に建つ千葉県立郷土博物館(通称・千葉城)の
建設時の発掘調査で、13世紀には台地上は墓域だった事や
15世紀以降に土塁などが築かれた事を示す結果が出て、
従来の説は変わってきているようです。
その一方で15世紀以降には千葉県立博物館の東側に広がる
千葉大医学部のキャンパスやその更に東の千葉大病院も
亥鼻城の外郭部だったと言われているようです。
現在では、千葉常重の屋敷跡は川を挟んだ
北側の千葉地方裁判所周辺と言われ、
鎌倉幕府の有力御家人となった千葉常胤が
この亥鼻に本拠を構えたと言われているようです。
ここには1973年(昭和48年)に、天守閣風の
千葉県立博物館が建てられて千葉城と呼ばれていますが
この建物は史実とは全くかけ離れたものです。
亥鼻城への最寄駅は千葉都市モノレールの県庁前駅です。
ここから千葉県立博物館は東に300m程。
歩いておよそ5分です。
千葉都市モノレールの乗車記はこちらです。
【亥鼻城登城記】
2009年11月4日、千葉都市モノレールを
県庁前で下車し、亥鼻城へと向かいました。
千葉県警脇の大通りを東に向かい、
県立図書館入口の交差点で右に折れると
亥鼻城のあった台地へと至ります。
その台地の麓には智光院と胤重寺という
二つのお寺がありました。
千葉市のホームページによると、智光院は、
1456年(康正2年)に千葉家の内乱を経て千葉家を
相続した千葉康胤が創建したと伝わるそうです。
また胤重寺は、千葉氏の支族武石氏の祖・胤重公の
菩提の為に永禄年間(1558-1570)に創建されたそうです。
この二つのお寺の間に階段があり、
亥鼻城のあった台地へと行くことが出来ます。
階段の脇から眺める台地の崖です。
高さは10m以上あり、これ程の急な崖が千葉の
市街地の中にあるとは思っていませんでした。
階段を上った右手には芝生が広がっていました。
台地上のこうした広い敷地は、近くにある文化会館を
建設した際に整備されたものだと思いますが、
近世の城郭の曲輪と思えなくもありません。
この先に、天守閣風の千葉県立博物館があります。
この博物館は通称・千葉城と呼ばれているようで
この周辺の案内板やweb siteの地図にもその名が見られます。
それにしても博物館と名の付く建物に、どうして史実と
全くかけ離れた建物を建ててしまったのでしょうか・・・
ここが千葉氏の本拠だったとしても、千葉氏が
この地を離れたのは15世紀半ばの事で、
その頃にはこのような建物は存在していませんでした・・・
この千葉県立博物館の西側が
亥鼻城の本丸跡と伝わるところです。
この本丸跡の入り口には土塁跡が残っていました。
高さも殆どなく、風化してしまっていますが
これが数少ない亥鼻城の遺構と言われています。
本丸跡から博物館方面の入り口を眺めた様子です。
今は、立木がありすっかり公園の一部となっていますが
当時はここに建物が並んでいた事でしょう。
本丸跡の西側も一段高くなっていました。
この高くなったところも土塁跡と思います。
この土塁の上に、石器時代の砥石がありました。
この台地の上では、古い時代から
人々の暮らしが営まれていたようです。
この奥に進むと、空堀跡と思われる窪地があり、
その先に神明社の境内がありました。
思いがけず深い窪地です。
対岸の階段を上ったところに
あった神明社の鳥居です。
この鳥居をくぐったところに、
猪鼻城跡と書かれた碑がありました。
10m四方程の神明社の境内の奥にあった小さな社です。
この神明社の境内は当時の物見台跡とされています。
この窪地や神明社の雰囲気は、古城の趣をよく残しています。
この辺りを訪れていると、千葉常重や千葉常胤が活躍していた
平安後期から鎌倉時代にかけては、現在の千葉地方裁判所や
この亥鼻公園の台地下に居館があり、この神明社や
亥鼻城本丸跡あたりは、戦があった際の拠点である
詰めの城のあったところでは?という気がして来ます。
物見台跡とされる神明社から博物館の入り口まで戻りました。
県立博物館前に建つ千葉常胤の騎馬像です。
そして聳える県立博物館です。
この県立博物館では、千葉県内各地に残る
古城の説明書が備えられ、とても参考になりました。
そして、最上階の展望台からの眺めです。
左の写真が亥鼻城本丸跡の様子です。
右の写真は東側を眺めた様子です。
この左手に千葉大医学部や千葉大病院があります。
この辺りも 亥鼻城の外郭部という事ですが、
この広い範囲が亥鼻城の城郭となったのは、
戦国時代に入ってからの事だったのでは、と
想像しながらこの景色を眺めていました。