金山城
Kanayama Castle, Japan
登城日:
2006. 10. 27
金山城は、群馬県太田市のほぼ中央に位置する
標高235.8mの金山に築城されたお城です。
東武鉄道太田駅から眺めた金山
地図はこちらです→
築城されたのは1469年(文明元年)の事です。
新田氏の流れを汲む岩松(新田)家純の命により
新田荘の統治を強化する目的だったようです。
この後、戦国時代には金山城は
由良氏が支配する事になったようです。
関東平野の北部のこの金山の位置は
西に武田氏、北に上杉氏、東に佐竹氏、
南には北条氏と強国の接点に位置する要衝の地で、
何度も攻め込まれるのですが、由良氏の本拠の
この金山城は落城せずに堅陣を誇ったそうです。
その後、北条氏が支配するようになりましたが、
秀吉の北条攻めの際、城主由良氏は
親子で敵味方に分かれて生き延び、
徳川幕府開府により廃城になったようです。
廃城になったものの、江戸時代には
幕府の御用林となり入山が禁止された為、
城郭が今にもよく残されているようです。
この金山城は昭和9年に国の史跡指定を受け、
1994年(平成6年)から発掘調査に基づく復元整備をしています。
太田駅から金山城までは、直線距離で約2.5km。
小雨も降りそうな天気で、太田駅からタクシーで
金山山頂にある金山城址の駐車場まで行きました。
途中からヘアピンカーブの続く山道となり、
駐車場の手前で、登城道と出会った所で
タクシーを降り、金山城の探訪を始めました。
この金山城をいくつかの
区域に分けて紹介します。
西矢倉台跡 〜 馬場曲輪
Jan. 02, '07
月ノ池 〜 日ノ池 (三の丸、南曲輪)
Jan. 03, '07
実城 (本丸)
NEW! Jan, 04, '07
西城 〜 見附出丸
NEW! Jan, 04, '07
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西矢倉台跡 〜 馬場曲輪
タクシーを降りたところには、
金山城址の碑が建っていました。
案内図もあり、それによると金山城は
かなりの規模で復元がなされているようです。
山の尾根に沿って、本丸にあたる実城への道を歩いていくと
学校の遠足で訪れている小学生の一団とすれ違いました。
やがて、深く切れ込んだ堀切が現れてきます。
「西矢倉台西塹壕」と書かれた
碑が建っていました。
「塹壕」というのは、堀切の事を現していると思います。
堀切は、山の尾根に深く切れ込みを入れ、
敵の侵入を防ぐ仕組みで、山城ではよく見かけます。
当時の急な斜面の切れ込みが復元されています。
切れ込みの底は平らになっていて、
ここは通路として利用されていたようです。
この堀切を迂回するように
木橋が架けられていました。
この木橋は質素な造りで、平時は
城内の移動に使われていたものの
戦時には壊され、敵の侵入を防いでいたのでしょう。
再び矢倉台下の堀切が現れ、しばらく行くと
馬場下通路の石垣が見えてきました。
手前の通路のように見えるのが、土橋です。
土橋の対岸は櫓が乗っていたような台になっています。
戦国時代のお城には珍しく、石垣で固められています。
土橋の左手は、荒々しい岩肌が
剥き出しの堀切になっています。
堀切が幾つも並び、さらに土橋や台で両側を囲まれた造りは
この金山城がいかに堅牢な城だったのかが実感出来ます。
その先に石畳の道が続いています。
石畳の道は、筋違いに木橋が架けられていました。
敵の侵入を防ぐ工夫が至る所に見受けられます。
この馬場下通路を過ぎ、左手の坂道を登っていくと
そこが馬場と呼ばれる曲輪です。
細長い空き地があり、その西の端に物見台が建っていたようです。
物見台は再現されずに、展望台が建っていました。
この日は生憎の曇り空で、
うっすらと靄もかかり
展望は効きません。
下の写真はその展望台から見下ろした馬場曲輪です。
馬場曲輪は山の背の広くなった地形を利用した様に思います。
この馬場曲輪の東側は城内の展望が開け、
そこに当時の建物が復元されていました。
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月ノ池 〜 日ノ池 (三の丸、南曲輪)
馬場曲輪まで、尾根伝いに歩いていましたが、
馬場曲輪の東の端まで来ると金山城の主要部分であった
三の丸や二の丸、南曲輪が見えてきました。
これは馬場曲輪と三の丸の間の堀切です。
地形を上手く利用したのか、谷のように思える程、
深く切れ込んでいました。
この堀切の下には、
月ノ池と呼ばれる丸い池があります。
2段の石段で組まれた真円に近い池です。
切り通しからの表流水や伏流水を貯めたものだそうです。
籠城戦の際の貴重な水を確保していたのでしょうか。
この月ノ池の先から、金山城の中枢部に入ります。
立派な石垣で囲まれた虎口が復元され、
この先に三の丸、二の丸そして本丸にあたる
実城の曲輪が縄張りされています。
下の写真は虎口から眺めた写真です。
総石垣の虎口が復元され見事な眺めです。
虎口から石垣の間に大手道が整備されています。
お城に石垣があるのは、当たり前のようですが、
戦国時代にこれだけの規模の
石垣を築いていたのは驚きです。
しかも、関東地方には江戸時代でも石垣を持ったお城が少なく、
戦国時代の関東地方のお城には石垣を持ったお城が無いという
それまでの定説が、この金山城の発掘調査で覆されたそうです。
大手虎口の石垣を抜け、右手の
大手虎口南大手曲輪に上ってみました。
写真手前に井戸と建物が復元されています。
大手虎口を挟んで反対側の山の斜面は三の丸で、
斜面に沿って、何段もの石垣で
平地が区切られているのが判ります。
写真には写っていませんが、大手虎口に来た時には
大勢の遠足の小学生が、お昼ご飯を食べていました。
何校かの遠足が重なったようで、石垣で囲まれた各曲輪に
50人程の子供達が散らばっていました。
その様子を見ていると、この周囲だけで、
数百人規模の守備兵を配置出来る
規模だったように思います。
南大手曲輪には、当時の金山城の
様子を示す模型が置いてありました。
この模型の赤く色が塗ってあるところが、
金山城の曲輪等で自然の地形に
手が加えられている所です。
金山のほぼ全山が城郭として
整備されていた事がわかります。
この金山城が上杉謙信や北条氏の攻撃に
持ち堪えたのも判るような気がしました。
そして南大手曲輪の先に、日ノ池がありました。
この日ノ池は直径16〜17mで、
月ノ池を一回り大きくした円形の池です。
月ノ池と同じ様に、石垣で周囲を覆われています。
山の上にこのような大きな池があるのは
とても珍しいとのことで、日常の水の確保以外にも
戦勝や雨乞い等の儀式にも使われたということです。
この日ノ池から坂道を上がっていくと、
いよいよ実城(本丸)です。
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実城 (本丸)
日ノ池から一段高い所にあがると、
南から北に向かって空間が広がっています。
このあたりを御台所曲輪というようです。
上の写真は、この曲輪の南の端に近いところから撮ったもので、
北の端に実城とよばれる本丸があります。
御台所曲輪には休憩所のような建物がありましたが、
今はもう店じまいしている様で、寂れた感じです。
約1万坪の敷地があり、当時は
城主の御殿が建てられていたそうです。
本丸に向かう途中に聳えていた大欅(けやき)。
樹齢は何年なのでしょうか?
戦国時代、この金山城を舞台にした戦いを
見守っていたのかも知れません。
この大欅を過ぎると石段を登り、
金山城の本丸に辿り着きました。
今では、新田神社の境内となっていて、
遠足の小学生達が所狭しと座ってお昼を食べています。
当時は隅櫓も建っていたそうです。
西矢倉台あたりからここまで歩いて来て、
この奥まった実城まで攻め込む事は
本当に至難の技だった事と思います。
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西城 〜 見附出丸
東に向かい西矢倉台から実城まで行った後、
今度は、西城を目指しました。
尾根伝いの道を下り、先ほどタクシーを
降りた場所まで戻って来ました。
ここから尾根伝いに更に西に下っていくと
駐車場があり、その辺りが西城の曲輪です。
駐車場を過ぎたところに
「西城筋違い城門」の碑が建っていました。
西城は、実城に比べると、規模が小さく、
実城の出城の一つだったとようです。
城域も発掘調査中のようで、
青いシートがかけられていました。
このあたりは、現地案内図と照らし合わせてみると
西城の下に位置する見附出丸のようです。
その先には、深い切れ込みがあり、
堀切だったように思います。
草が覆い茂った様子を見ていると、
廃城されて400年経った、時の重さを感じます。
しかし、何年か後には発掘調査が進み、
この西城の領域も当時の様子が復元されるのも楽しみです。
その際には、また訪れてみたいと思います。
見附出丸の堀切の先に、再び空き地が現れました。
ここにも「史跡 金山城址」の碑が建っていました。
ここでしばらく佇んだ後、ハイキングコースを辿って
麓の金龍寺や大光院へ坂道を下って行きました。
太田市の旅行記のページは
こちらです。
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