烏山城
Ruins of Karasuyama Castle, Japan


登城日:
2009. 12. 22







【烏山城概要】


烏山城は、1417年(応永24年)に那須資重が築いたお城です。

那須資重は下野の那須氏一族です。
1416年に起こった上杉禅秀の乱では兄の資之と
敵味方になって戦い、那須氏分裂を引き起こしています。





那須資重は元々別の場所に築城する予定だったそうですが
烏が幣束をくわえ八頂山の頂上に飛んでいくのを見て
城の場所をそこに決めたと伝わっています。

その場所が、今の烏山城址の位置です。


烏山城は、その八頂山の頂上付近に
本丸、二の丸をはじめ、いくつかの曲輪で
構成された五城三郭と呼ばれる山城部があります。

麓には1659年(万治2年)に堀親昌に
よって三の丸が築かれています。





烏山城を築いた那須氏は、その後1514年(永正11年)に
統一され、その後は烏山城を居城とします。

戦国時代には佐竹氏に何度も攻め込まれながらも
これを凌いでいましたが、1590年(天正18年)に
豊臣秀吉によって烏山城を追われ、織田信雄が入城します。

しかし、信雄がわずか2か月で秋田に移封となると
その後は目まぐるしく城主が入れ替わります。

江戸時代に入ると烏山にも藩が置かれ、
成田氏長が初代の藩主となります。

その後、那須氏も烏山藩主として復活しますが
僅か7年後、2代目の時に改易となってしまいます。

そんな烏山城主の推移ですが、1725年(享保10年)に
大久保常春が城主となると、明治まで大久保氏が
烏山の城主を務めました。


烏山の町の散策記はこちらです。




【烏山城へのアクセス】


烏山城は、JR烏山線の終点・烏山駅の
北側1.5km程のところにあります。

寿亀山神社の脇から七曲と呼ばれる
登城路を上ると城山の上にある
本丸、二の丸跡に行くことが出来ます。

JR烏山線の乗車記はこちらです。





【烏山城登城記】




筑紫山


2009年12月22日、JR烏山線の気動車で烏山に着き、
烏山の古い町並みやお寺などを眺めながら
北に向かい烏山城に向かいました。

JR烏山線の乗車記はこちらです。
烏山の町の散策記はこちらです。


八雲神社脇に、烏山城と書かれた案内板がありました。



しっかりとした地図を持たずに歩いていたので
この標識を頼りに、お城に向かう事にしました。



いきなり、かなりの階段が続きます。
この階段を上ると、防空監視哨跡や石碑があり、
そこから更に上りが続きます。



所々、曲輪の様な小さな平削地もあったのですが
ここが既に城域になっているのか、どうか
半信半疑の状態で山頂までやってきました。

後で地図を調べてみると、この山は筑紫山でした。
筑紫山頂からの烏山の町の眺めです。



標高199mの筑紫山からの眺めは
木々に遮られてはいましたが、
広々としたものでした。

山頂には小さな祠もあったのですが、
その奥には烏山城への道を示す標識もありました。



という事で、筑紫山は烏山城址ではなく、
急な石段を下って行きました。



階段を下りたところで振り返って眺めた様子です。




五城三郭 (山城部)


筑紫山から下ってくると、
高台の下に道案内の標識がありました。



登山道脇の高台です。
この高台は、太鼓丸の鼓楼跡です。



櫓台だったと思います。

ここの案内標識の所が麓に下る七曲道への分岐路で、
本来なら、ここから烏山城にアタックすべきでした。

この先に車橋址がありました。



車橋は、堀切架けられた橋の事でしょうか。
当時は車橋を渡ったところに常盤橋御門があったようです。

ここが烏山城の入り口にあたります。
坂道を上っていくと立派な石垣が現れました。



関東地方には珍しく烏山城は石垣のお城だったようです。



石垣に沿った坂道の先には吹貫門がありました。



そして先ほどの石垣の上が江戸時代に
二ノ丸だった常盤曲輪です。
雑草の生い茂った中に塩蔵と
書かれた案内板がありました。

吹貫門の先には正門がありました。



右手に櫓台と思われる土塁跡があり
その下には石垣の一部がありました。

藪がかなり深く、案内板があるものの
なかなか当時の様子を推し量る事が出来ません。

正門の先には、本丸と西側の若狭曲輪の間の
大きな空堀があったようですが、雑草に覆われ
その様子は、判りませんでした。



正門を過ぎ、右手に曲がると、
杉の木々が生い茂った平地が広がりました。



ここが江戸時代に本丸だった曲輪です。
那須氏時代には二ノ丸だった所で、杉の林の中に
立つ案内板には「二の丸」と記されていました。

二の丸の奥で空堀を横切って進みます。



この空堀の先が古本丸、那須氏時代の本丸です。
古本丸も鬱蒼とした杉林になっていました。



烏山線の列車で烏山に着いたのは午後1時過ぎ。
まだ陽も高い時間だったのですが、筑紫山に
寄り道している間に既に陽も西に傾き、
辺りも薄暗くなってきました。

全く他に人気が無く、藪も深い山の中で陽が暮れては、
麓に戻る事もままならない可能性もあります。

少々心細くなってきました。

これは古本丸の北側の切岸でしょうか。



どこをどう彷徨っているのか、
少々判らなくなってきました。

古本丸の北側にある中城も
深い藪と杉林でした。

中城の北側の切岸を階段で下っていきました。



階段を下った所に烏山城のもう一つの登城口、
十二曲り道へと至る道しるべがありました。



中城と北城の間にある空堀の様子です。
深く切れ込んだ空堀でした。



この北側が北城です。



しかし、ここも藪が深く、周囲も更に暗くなったので
この案内板を写したところで、引き返すことにしました。


烏山城の山頂部は、1659年(万治2年)に堀親昌が
麓に三の丸を築くと、その役割を終えてしまいます。

それから350年の時が経ち、城址は
すっかり自然に還ってしまっていました。

烏山城は思った以上に規模の大きな遺構も
あったのですが、それが杉林や藪に埋もれ、
全体像が判らないのは残念でした。




三の丸


北城から太鼓丸の麓の道案内の標識の所まで戻りました。



ここから七曲り道を経て麓に戻る事が出来ます。
短い冬の陽は既に、山の影に入ろうかとしていました。

正門から下ったところに、この七曲り道があるので
当時もここが大手口だったようにも思うのですが
どうだったのでしょうか。



七曲り道も、かなりの急坂でした。
陽も陰った山道を下っていくと、
砂防ダムが見えてきました。



ここからは道も広がっています。

暗くなりかかった時に山道を歩くのは心細かったので、
この砂防ダムを見たときはホッとしました。


山間を抜け、麓に抜け出ると
寿亀山神社の脇に出ました。



この寿亀山神社は烏山城主だった
大久保常春を祀っています。

寿亀山神社の社殿です。



烏山城には蛇姫の伝説が残っています。

境内には、それを小説にした
川口松太郎ゆかりの碑もありました。



この寿亀山神社の境内も三の丸ですが、
この下には居館が建っていた曲輪があります。



神社の参道の北側、写真の左手が居館跡です。

この三の丸は1659年(万治2年)に
堀親昌によって築かれています。



三の丸は底辺を石垣で固められた
土塁でしっかりと囲われていました。

三の丸には多聞櫓が建てられていたそうですが、
この土塁の上に建てられてのでしょうか。

土塁の一部が欠き取られていました。



ここが入り口だったと思われます。

この三の丸には門と思われる建造物が
ポツンと建てられていました。




三の丸を散策し烏山駅へと戻る途中で
烏山城の全容を眺める事が出来ました。



写真左は、筑紫山です。
丁度、筑紫山に陽が沈む頃でした。

後、1時間遅かったら、五城三郭を彷徨って
いるうちに暗くなっていたかも知れません。


烏山駅に戻る途中で、烏山郷土資料館に立ち寄りました。



ここには烏山城の資料も豊富で、お城に行く前に
立ち寄る事をお薦めします。

この資料館には大手門の礎石も残っていました。



大手門の場所は、那須烏山市中央1丁目、
2丁目そして3丁目の接点との事で、
烏山幼稚園の交差点近くだったそうです。





この辺りからも烏山城のある
城山を望む事が出来ました。






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