水戸城
Mito Jyo, Japan


登城日:
2006. 05. 02







水戸藩は徳川御三家の一つです。

水戸藩自体は黄門様で知られる二代藩主、
徳川光圀公や幕末に藩主だった徳川斉彬公、
そして最後の将軍となった徳川慶喜と、
名の知れた将軍や藩主を輩出しています。

また200年以上かけて編纂されたという大日本史や
幕末の水戸学等々、歴史にも名を残しています。

そんな水戸藩なのですが、居城であった
水戸城の情報は少なく、その印象は
いま一つパッとしていませんでした。

それで、「日本全国お城めぐりの旅」を始めて以来
初めての関東地方への旅行に出掛けたので、
この水戸城に行ってみる事にしました。
水戸の様子はこちらです。


地図はこちらです→ Mapion


水戸城は那珂川と千波湖の間の台地の上に築かれたお城です。
水戸城は1214年に馬場資幹が館を建てたのが始まりだそうです。
戦国時代に入り、佐竹氏がこの水戸城を支配し、城郭を整備し、
徳川幕府以後は、御三家の居城として大規模な改修をしています。

西から東に向かって、三之丸、二之丸そして本丸が
横に並ぶ連郭式と呼ばれる縄張りになっています。


水戸駅前の表通りを歩き、公孫樹の角を右に折れ、
水戸京成ホテルの前を坂道を登ると、
当時は水戸城の三之丸だった辺りです。

当時を模した土塀の学校に突き当たり、
左に折れると水戸県庁の三之丸庁舎です。
この水戸県庁前に立派な空堀の跡が残っています。



水戸城は石垣を一切使っていなかったそうで、
この空堀も土塁で出来ていますが、
その規模はとても大きく、さすが
御三家のお城という感じがします。

小学校に突き当たった道を反対に
左に折れると弘道館があります。
弘道館は水戸藩の藩校だったところです。
徳川斉昭によって1841年に創設されたとのことなので、
意外にも幕末近くなって建てられたようです。

その弘道館の一部の建物が残され、
国の特別史跡として整備されています。



白壁の土塀に囲まれた正門。
堂々とした門に威圧されそうな雰囲気です。

正門の脇から中に入ると、政庁です。



徳川斉昭がこの弘道館を設立したのは、
実践に役立つ有能な人材を育成する為だったそうで、
当時は、馬場や調練場もあったそうです。

徳川斉昭の子で最後の将軍となった徳川慶喜も
この弘道館で英才教育を受けたそうです。



厳粛な雰囲気の政庁の間の佇まい。

生憎の雨模様で、気温も下がっていて、
その冷んやりとした空気が、ピリっとした
緊張感を一層醸し出しています。

この政庁の奥に、至善堂という建物があり、
そこで、大政奉還した慶喜公が
謹慎生活を送っていたそうです。


弘道館の見学を終え、二の丸へと向かいます。
弘道館の目の前の橋を渡ると二の丸です。



以前の大手橋です。
何気なく橋が架かっているようですが、
橋の下はかなり深い空堀になっていて、
今は道路が走っています。



明治維新の頃には、この橋を挟んで、
新政府軍と旧幕府軍の間で
激しい戦闘が行われたそうです。

橋を渡ると大手門があった辺りです。
二の丸の立派な土塁が残り、
当時の門や枡形の様子がわかりました。

水戸藩の初代藩主、徳川頼房公の銅像も建っていました。



昔の枡形に沿って、鉤状に道を折れ二の丸に入ります。

水戸城では、佐竹氏時代からの本丸が
御三家になった以降は手狭になったので、
江戸時代は二の丸がお城の中心だったそうです。

水戸城には天守は建てられなかったのですが、
天守の代わりとしていた御三階櫓も二の丸にあったそうです。

今では小学校、中学校そして
女子高が二の丸跡を占めています。

学校と学校の間の道の脇に
大日本史編纂之地の碑がありました。



水戸光圀公が始めたこの偉業が開始されたのは1657年。
そして完成したのは、なんと250年後の
1906年、明治39年だったそうです。

大日本史編纂に尽力した、「格さん」として知られる
安積澹泊(あさかたんぱく)の像もあったようですが、
それは見逃してしまいました。

本丸に向かって東に歩く途中
今度は大きな椎の木が見えてきました。



戦国時代から自生していたという大椎で、
水戸城の象徴の様な木だったそうです。


この大椎を過ぎると、再び土塁で
築かれた深い空堀を橋で越えます。

この堀の跡に線路が敷かれていました。
JR水郡線の線路です。



この空堀はとても規模の大きなもので
堀というよりも台地を深く削り取ったような地形です。

この堀を渡ったところが本丸跡。
現在は水戸第一高校です。

関係者立ち入り禁止の校内なのですが、
この本丸跡に移設されている薬医門の見学する場合は
立ち入りが黙認されているようです。



この薬医門は水戸城に唯一残る遺構です。
堂々としたこの門は、本丸から二の丸へと通じる
橋詰御門だったといわれているそうです。


明治維新の戦いや、第二次世界大戦で
多くの遺構を失ってしまった水戸城ですが、
弘道館や、立派な堀や土塁の遺構を目の辺りにし、
当時の御三家の居城としての威光を
十分に、思い浮かべる事が出来ました。



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