大多喜城
Ruins of Ootaki Castle, Japan


登城日:
2009. 11. 03







【大多喜城概要】


大多喜城は房総半島のほぼ中央に
位置する大多喜町にあるお城です。




従来は徳川家康が江戸に移封になった際、
この地を与えられた本多忠勝が築いたと
されていたようですが、発掘調査の結果、
1521年(大永元年)に真里谷信清が築いた
小田喜城が基になっているようです。


本多忠勝が大多喜の地を与えられたのは
1590年(天正18年)の事です。

この時、3層4階の天守を築き、
近世城郭へと大改築を行ったようです。



御禁止川の北側の丘陵地に城郭が広がり、
西側の一番高い位置に本丸があり、
東に二の丸、三の丸と続く連格式の縄張りです。


初代藩主の本多忠勝が関ヶ原の戦いの後に桑名に
移封となると次男の本多忠朝が城主となります。

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で戦死すると
阿部政次が大多喜藩主となりますが、1619年(元和5年)に
小田原藩に移封となると大多喜藩は一時廃藩となり、
その後城も荒廃したそうです。

その後、何度か城主が入れ替わりますが、1703年(元禄16年)に
松平正久が相模・玉縄藩から移封されると、以降明治まで
松平氏が大多喜の地を治める事になります。

大多喜の城下町の散策記はこちらです。




【大多喜城へのアクセス】


いすみ鉄道大多喜駅の西側200m程の
所に大多喜城はありました。

駅を出て南に向かい、最初の角を右に折れ
坂道を上ったところにある大多喜高校が
二の丸跡で、その上の高台に模擬天守が見えてきます。

いすみ鉄道の乗車記はこちらです。





【大多喜城登城記】



上総中野からのいすみ鉄道の普通列車を
大多喜で下車し、大多喜城に向かいました。

駅前の通りを南に進むと、立派な門をくぐります。



これは観光用に作られた模擬の大手門です。
史実とは全く異なりますが、それでも
お城めぐりの雰囲気が高まります。

いすみ鉄道の踏切を渡り、緩やかな坂道を上ると
大多喜高校の敷地内へと入りました。



この校庭が江戸時代の大多喜城の二の丸でした。

この東側の一段低いところにはテニスコートがあり、
この辺り一帯が三の丸だったと思います。



テニスコートの向こう側の家の先に見える
赤い屋根が八幡神社の社殿です。
その先に、当時は大手門がありました。


大多喜高校の校舎と校庭の間に
古い城門が残っています。
二の丸御殿の門だった薬医門です。



1842年(天保13年)に大多喜城で起きた
火災の後に建てられたものです。

明治維新の後には一旦払い下げられたそうですが
1925年(大正15)に今の位置に設置されたそうです。

薬医門を抜け、校舎に沿って歩くと、高台に建つ
大多喜城の模擬天守が見えてきました。



麓の駐車場には大井戸がありました。



1590年(天正18年)、本多忠勝が築城した際に
設けられたという、日本一の大井戸です。
周囲は10m、深さは30mもあるそうです。

この大井戸の脇から本丸へと上る階段です。



ここを上り、本丸に向かいました。
この道は古城めぐりらしい雰囲気でした。

上りだして、振り返ると大井戸と
二の丸跡の校庭が広がっていました。



坂道を上り仰ぎ見る大多喜城模擬天守です。



白亜の白壁が青空に映えてとても綺麗でした。

本多忠勝が3層4階の天守を築いたと伝わりますが、
江戸時代初期に一時的に廃城に成った際に、
城の主要な建物は失われてしまったようで、その後も
この本丸部分は荒れた状態で放置されていたそうです。

模擬天守前の土塀です。



本丸跡には僅かながら土塁も残されていました。

周辺を見回った後に、模擬天守に登ってみました。
模擬天守は、千葉県中央博物館の
大多喜城分館になっています。



模擬天守からの眺めです。



写真左下に二の丸跡の大多喜高校の校庭が見え、
その向こうに房総半島のなだらかな山々が続いています。

模擬天守に登った後、西側から下城する事にしました。



こちら側は、自動車の通行できる道路が繋がっています。
坂道を下り始めてすぐに、二の丸公園がありました。



大多喜城の二の丸は、麓の大多喜高校の位置に
あった筈なので、この公園の名称は、ちょっと疑問です。



二の丸公園にあった堀切と思える地形です。
当時のものかどうかは判りませんでした。

二ノ丸公園は二段になっており、
一段高い位置には鐘楼が建っていました。



この梵鐘は1729年(享保14年)に、
無縁の菩提を弔う為に城下の村人が
浄財を募って作ったものです。

享保14年は台風の被害があったようで、
その犠牲者を弔う為だったのでしょうか。
享保の大飢饉はこの3年後の事です。


二の丸公園から麓まで坂道を下ると
道の脇の崖の洞穴がありました。



そこには大多喜水道の案内板がありました。

丘陵地にある大多喜は水の便が悪かったようで
幕末に水道を引く工事が計画されたようです。
実際の工事は明治になってから始まり、
1870年(明治3年)に完成したようです。

ここから西に2kmの水源から
5.8kmに及ぶ水道を築いたようです。


大多喜城の麓を流れる夷隅川です。
江戸時代にはこの川での魚釣りは禁止され
御禁止(おとめ)川と呼ばれていたそうです。



この川で摂れた鯉を参勤交代の際に
将軍に献上していたようです。
下流には、いすみ鉄道の鉄橋も見えています。

いすみ鉄道からの大多喜城の
模擬天守の眺めも良かったです。

いすみ鉄道の乗車記はこちらです。


ここから大多喜城址の麓を東に向かい、
いすみ鉄道大多喜駅の裏側に向かいました。

ここに八幡神社があります。





八幡神社の社殿です。



718年(養老2年)に鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀して
創建されたという古い歴史を持つ神社で、
江戸時代には二の丸に置かれていたようです。

明治に入り、旧三の丸の現在地に移されました。



この八幡神社から東に向かうと
大手門跡の碑がありました。



"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る