佐倉城
Bushu Matsuyama Yakata, Japan


登城日:
2007. 06. 24







佐倉城のある現在の千葉県北部は
戦国時代に千葉氏が支配していました。
千葉氏は本拠を本佐倉城に構え、
現在佐倉城のある地には築城途中で
放棄された鹿島城があったようです。

1590年(天正18年)の秀吉の小田原攻めの後、
千葉氏は四散し、家康の命を受けた
老中・土井利勝が鹿島城跡に築いたのが
佐倉城の始まりとされているようです。

1611年(慶長16年)に工事に取り掛かり、
6年後に完成したということです。

佐倉城は鹿島川・高崎川に囲まれた台地に位置し、
台地の周囲は急な崖となっていて、さらに
北には印旛沼が広がり、西南には深い湿地帯という
堅牢な近代城郭だったようです。

地図はこちらです→ Mapion


土井利勝以降も譜代の松平、堀田、戸田氏が入封し、
江戸の東を固める要衝のお城だったようです。



佐倉城の城郭は、南西部隅に本丸を配し、
その周囲を二の丸、三の丸が取り囲む
梯郭式の構造で、本丸から東には二の門、
三の門そして大手門とほぼ一直線に並び、
北には城米不明門、椎木門、
田町門と続いていたようです。


この佐倉城には2008年6月下旬に訪れました。
佐倉駅から1.5km程離れた佐倉城に
タクシーで向かいました。

タクシーを降りたのが佐倉城址公園を
少し入った三の丸の入り口、三ノ門あたりです。



幅の広い芝生の窪地があったのですが、
これが三の丸の手前に設けられた空堀だったようです。

ここから佐倉城の散策を始めました。

下の写真は、三ノ門跡の土塁と思います。



この土塁を抜けると、木々の生い茂った三の丸跡です。



下草が刈られ、何人もの人が散策していました。

三の丸の東側は、一段低くなった谷のようになっています。



姥が池へと繋がるこの谷は、
本丸を散策した後に訪れてみました。


三の丸跡には茶室もあり、その先は
藪の生い茂る空堀が横たわっていました。

空堀に突き当たって右に折れて行くと
椎木門跡に出ました。



二階建ての櫓門が立っていた
椎木門の先には大きな馬出がありました。



直線的な堀で囲まれ、芝生や生垣でよく整備され
当時の馬出の形状がはっきりと残っています。

このような立派な馬出を見たのは
この佐倉城が始めてのような気がします。

馬出のすぐ目の前には、国立歴史民族博物館の
近代的な建物があったのですが、時間が限られていて
ここで引き返し、本丸跡に向かいました。


戦前に駐屯した旧日本陸軍の駐屯地跡の
残骸を眺めながら二の丸跡に向かいました。

二の丸は広々と空き地が広がり、
そこでボーイスカウトの人達が
何かの活動をしていました。



二の丸の片隅には佐倉城の建物に
使われた礎石が集められていました。




二の丸を西に向かうと木の生い茂る
深い空堀に遮られ、一旦三の丸の方向に戻り、
そこから三の丸と二の丸の間の、
二ノ門跡に向かいました。

その二ノ門近くに、堀田正睦の銅像がありました。



堀田正睦は幕末の1825年(文政8年)に佐倉城主となり
老中首座として、アメリカの総領事ハリスと
日米通商条約の交渉にあたった人です。

彼は開国論者だったそうで、時代の
流れが見えていた人だったようですが
この日米通商条約が不平等条約との指摘を受けたり、
条約締結の勅許を得られず、その後大老になった
井伊直弼から罷免されたりと、歴史の荒波に
揉まれてしまった人という印象があります。

二ノ門の脇には、深い谷があり、
佐倉城の西の守り出丸跡へ向かう
階段が続いていました。


二の丸を過ぎ、正岡子規の句碑を過ぎると
いよいよ本丸への入り口、一ノ門です。



当時は堂々とした2階建ての
櫓門が建っていたようです。

一ノ門跡を抜けて足を踏み入れた本丸跡です。



周囲をぐるりと土塁が囲み、100m
四方程の空き地が広がっています。



当時はここに本丸御殿が建ち、
一ノ門のすぐ左脇に角櫓、北の角に銅櫓
そして西の角に天守が建っていたようです。
本丸を取り囲む土塁です。



土塁に上って、本丸の周囲を半周した後に
天守や櫓跡を見て廻りました。


まずは北の隅にあった銅櫓跡です。



この銅櫓は、太田道灌が建てた
江戸城の櫓を土井利勝が将軍から拝領し
移築したと伝えられているようです。

そして、本丸の西の角にあった天守跡です。



佐倉城は石垣を一切使っていないお城で、
天守も土塁の上に築かれていたそうです。
土塁の緩やかな傾斜が、優雅な感じです。
そして、天守の向かいにある角櫓跡です。



銅櫓と同じように、僅かばかり土を
盛った上に建てられていたようです。

本丸を一巡し、台所門(不明門)から
次に、姥が池に向かいました。

姥が池は三の丸の北側の窪みにある池です。



江戸時代には、かきつばたの名所だったようですが
今は蓮が池の面を覆いつくしています。

近くの湿原には菖蒲でしょうか、
紫と白の花が咲いていました。



多くの人が、この菖蒲を眺めに訪れていました。




これで佐倉城の散策を終えて、タクシーで
来た道を歩いて佐倉駅まで向かいました。

佐倉城址公園を出ると、高校や中学が続き、
その先に大手門跡の碑が立っていました。



大手門は城郭の東の端、総曲輪の表門でした。



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