館林城
Tatebayashi Castle, Japan


登城日:
2006. 10. 27







館林城は5代将軍・綱吉公を輩出したお城です。
館林城が何時築城されたのか、確かな記録は残っていないそうです。
現地の案内板によると、最も古い記録は、1471年(文明三年)に
赤井氏の居城である立林(館林)城を上杉軍が攻略したものだそうです。

その後、上杉氏、甲斐の武田氏や北条氏の間で争奪戦が行われ、
上杉謙信や北条氏が支配していたようです。

1590年(天正18年)の徳川家康の関東移封の時に、
家臣・榊原康政が10万石で城主となると、
その後は、大給松平氏が館林藩主となっています。
特筆すべきは、三代目将軍・家光の子、徳川綱吉が
1661年(寛文元年)に館林城主となり、1680年に将軍になっています。

綱吉が将軍になった後は、僅か2歳の実子・徳川徳松が
家督を継いで城主となりますが、1683年に5歳で夭逝すると、
その後は廃城となったようです。

しかし、1707年(宝永4年)に越智松平氏が再び館林藩主として入城し、
以降太田氏、井上氏、秋元氏と移封を繰り返しながら明治を迎えています。


2006年10月初め、東武鉄道小泉線に乗った際に
行ってみる事にしました。

東武鉄道小泉線の様子はこちらです。

小泉線の電車が館林に着くと、
駅前の観光案内所で館林城への行き方を尋ね、
駅前の自転車屋さんでレンタサイクルし、
館林城を目指しました。

駅前からの通りをまっすぐ1km程行くと、
南北に走る交通量の多い通りに行き当たり、
その先に館林市の文化会館や図書館、
市役所が建ち並んでいますが、そこが館林城址です。

地図はこちらです→ Mapion




館林城は、西から三の丸、二の丸
そして本丸と続いていたようです。

交通量の多い通りから一歩入った所に
館林城の碑が建っていました。




ここは文化会館や図書館の入り口に当たる位置で、
当時は三の丸だったところです。

左手には、土塁に囲まれた50m四方程度の空き地がありました。
この空き地は近代的な文化会館や図書館の
すぐ近くなのですが、古風な香りが漂ってきます。




この空き地の先には、
復元された土橋門があります。




門の周囲は土塀が建てられた
土塁で囲まれた狭い区域で囲まれ、
当時の雰囲気が色濃く伝わってきます。




この狭い区域は枡形門形式の跡で、
防御を固めた櫓門が当時は手前に建っていたように思います。
その枡形門の中には、井戸の跡も残っていました。


土橋門を見学した後、三の丸跡に建つ文化会館、図書館
そして二の丸跡に建つ市役所の前を過ぎ、自転車を走らせると、
急に視界が開けて、広々とした空間が広がっていました。




目算ですが、奥行き方向は200m以上、
左右も優に100mを超える空間で、
スタジアム付きのサッカー場が建設出来そうな広さです。

この広々とした空き地が、本丸の跡です。
さすがに将軍を輩出したお城です。
当時は、この広い空間に御殿の建物が
幾つも建てられていたことでしょう。

その様子を想像しながらこの空間を
眺めているものいいものです。
本丸の片隅には、石垣や土塁
そして井戸の跡もありました。




この写真は、石垣を写したものです。
調べてみると当時のものではなさそうとの事ですが、
詳しくなれば石の積み方で、それが判断出来るのでしょうね。

本丸のその先には、細長い池が広がっています。




この池を城沼といい、当時は本丸の三方を取り囲み
館林城の天然の守りとなっていたそうです。


館林城は、狐にまつわる伝説があります。
築城の際、現れた狐について行った経路で
縄張りが出来上がっていたとか、
北条氏や豊臣秀吉がこのお城を攻めた際にも
急に火の手があがったり、攻撃用に城沼に懸けた
橋が一夜で無くなっていたりしたそうです。
これも狐の仕業と語り伝えられたそうです。

館林城址には、この他にも色々な史跡がありました。
これは別途、こちらの旅行記で紹介しようと思います:

Shane旅日記 / 日本編 / 館林
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tatebayashi.html




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