下野国小山城(祇園城)
Oyama (Gion) Castle, Japan
登城日:
2009. 4. 3
【下野国小山城(祇園城)概要】
小山(祇園)城は、一説には平安時代に
築城されたとも伝わる歴史の古いお城で、
この地の豪族、小山氏の居城だったお城です。
お城の守り神として祇園社を祀ったことから
祇園城とも呼ばれているようです。
小山城の歴史は、この地の豪族・小山氏の歴史と重なります。
小山氏は、太田郷を拝していた太田氏が、1150年頃に
この地に移り、小山氏を名乗ったとも伝えられます。
平安末期の頃の当主・政光の後妻・寒河尼が頼朝の乳母となり、
その子、朝光やその兄らが頼朝の挙兵に応じ、
鎌倉幕府成立後は重用されたそうです。
小山城の城郭図です。
思川に沿って南北に
曲輪が並んでいます。
一の郭、二の郭そして三の郭は
便宜的に付けたものです。
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しかし小山氏は鎌倉時代末期の中先代の乱で
勢力を失い、その後、小山義政が宇都宮氏と
争った結果、鎌倉幕府軍に滅ぼされてしまいます。
この小山義政の乱の際に、祇園城が小山氏の
拠点の一つだったという文献が残っているそうです。
その後、結城氏の第9代当主・結城直光の
次男・泰朝を小山氏の後継としたそうですが、
この頃の関東地方は関東管領上杉氏と
古河公方との間の争いなどで、争いが絶えず、
その中で小山氏は何度となく滅び、その度に
同系の山川氏や結城氏から養子を得て
再興しているようです。
案内板には築城年として1460年から1465年と
記されていますが、この直前に享徳の乱と呼ばれる
争いがあり、小山氏は室町幕府の帰順令を
拒絶していた時代であり、この頃、幕府への対抗上
小山城の整備をしていたのではないでしょうか。
小山氏は1575年(天正3年)に北条氏照に滅ぼされ、
その後、北条氏照が小山城の大規模な
拡張・整備を行ったようです。
1590年(天正18年)に北条氏も滅びると、
江戸幕府成立後は家康の懐刀だった
本多正純が3万石で城主となり、
縄張りを完成させたそうです。
最終的には、本多正純が宇都宮に移封となった
1619年(元和5年)に廃城になったそうです。
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【下野国小山城(祇園城)へのアクセス】
小山城は、小山駅から1km程北西に行った
思川の東側に位置しています。
小山駅からゆっくり歩いて20分程です。
【下野国小山城(祇園城)登城記】
一の郭(本丸)
小山駅から街中を巡り、小山御殿跡を訪れ
小山城址へと向かいました。
県道に出て西に向かい、思川の橋の
袂に近づくと立派な石垣が見えてきました。
関東地方のお城としては珍しい石垣です。
戦国時代末期に小山城に入った本多正純が
城郭を拡張した際に築かれたものでしょうか。
オリジナルのものかどうか判りませんが
石垣の間のスロープを上り、
一の郭へと向かいました。
左手にある櫓台の脇を抜けると、城山公園
として整備された城址には桜が咲き乱れ、
平日にも係わらず多くの人が訪れていました。
左手の櫓台の上に登って、
思川方面を眺めてみました。
傾きかけた日差しで、川面が輝いていました。
写真、中央やや左手、思川の遠くに
見える台形状の地形は鷲城です。
小山義政の乱の際には、鷲城が本城で
小山城(祇園城)は支城として機能していたそうです。
桜咲く城山公園の様子です。
この日は満開には少し早かったようですが、
週末には多くの方が訪れた事と思います。
この一の郭(本丸)の東側には、
崩れかけた土塁が残っていました。
小山城(祇園城)は、郭が南北に並んだ
細長い形をしています。
西は思川が天然の要害になっていますが、
東側はこのような土塁や堀で
固めていたと思います。
一の郭の北側にあった慰霊碑です。
この碑の裏側にも
土塁が巡らされていました。
一の郭は東西100m、
南北200m程の広さです。
郭の北側は深い堀で囲われ
二の郭との間には赤い祇園橋が
架けられていました。
橋の手前、一の郭北側の
土塁が見事でした。
二の郭
土塁を抜けると、祇園橋を渡ります。
いきなり深さ10m程の空堀の上を歩きます。
のどかな公園の風景から一変しました。
想像以上に深い空堀で驚きました。
この空堀は旧結城道だったそうです。
思川方面は深い藪となっていました。
渡り終えて眺めた祇園橋です。
橋台が石垣で築かれていますが、
これは後世の改修と思います。
当時は、一の郭と二の郭の間はどのように
繋がれていたのか、と思いを馳せていました。
祇園橋を渡ったところは、郭の一角が
空堀で区切られ、馬出となっています。
その先に、もう一つの橋が見えています。
この橋が馬出と二の郭を繋いでいます。
馬出から空堀越しに二の郭を眺めました。
一の郭と二の郭の間の空堀程ではないですが、
この空堀も、なかなか立派でした。
橋を渡った、二の郭の様子です。
二の郭は一の郭に比べるとやや小ぶりで、
東西100m、南北150m程の広さです。
馬出との間の空堀の畔に、
公孫樹の古木が立っていました。
1803年(享和3年)に書かれた書物に
古木と記されているそうです。
二の郭の北側の低い土塁の上の
桜が綺麗に咲いていました。
三の郭へと向かう虎口の様子です。
ここにも石垣が巻かれていますが、
これも後世のものと思います。
三の郭
二の郭から石垣の間の狭い通路を
通って三の郭に向かいました。
二の郭と三の郭の間にも堀があり、
橋が架かっていました。
橋の右手(東側)は整備された空堀になっていましたが
西側は藪の中を小さな水の流れがありました。
この橋を渡って真っ直ぐに進んでいくと
三の郭の空堀へとそのまま入ってしまいます。
この空堀も、幅も広く立派なものでした。
右手の土塁に上ると三の郭に出る事が出来ます。
ここは50m程の広さで、一の郭や二の郭に
比べると、こじんまりとしています。
この三の郭の北の端には
かなり崩れかかっていましたが
土塁もはっきり認められました。
この三の郭は、どことなく古風な感じがします。
鎌倉時代の城主だった小山氏は、宇都宮氏と
争ったそうなので、この辺りの土塁は、
その当時のものなのでしょうか。
三の郭の東側の空堀を北に進んでいきました。
北に向かうにつれ空堀は更に深く
立派になって行きました。
空堀が東側に開けているところがあり、
そこを抜けて行きました。
小山城の東側、天翁院の南側の辺りです。
広い窪地も当時は空堀の底だったようです。
所々に土塁も残っています。
謂れのありそうな石碑もありましたが、
案内板もなく、よく判りませんでした。
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