高崎城
Takasaki Castle, Japan


登城日:
2009. 8. 22







【高崎城概要】


高崎城は、徳川四天王の一人・井伊直政が
箕輪城を廃し、新たな居城としたお城です。

この高崎城のあった場所には、鎌倉時代の初期に、
和田正信が築いた和田城という古城があったようです。

1590年(天正18年)に後北条氏が滅びると共に
和田城は廃城となり、その跡地に井伊直政が
高崎城を構えたそうです。


井伊直政の高崎城築城によって高崎藩が興り、
井伊直政は初代高崎藩主となっています。

井伊直政は関ヶ原の戦いの後に、
近江の佐和山に移封となり、その後、
高崎藩主は諏訪氏・酒井氏・松平氏など、
徳川譜代の大名が目まぐるしく交代したようです。



高崎城は、烏川を背後にし、本丸の周囲を
二の丸が囲む連郭式の縄張りとなっており、
その東側に三の丸が配置されています。

高崎城をこの様な姿に整えたのは1619年(元和5年)
に移封された安藤重信の頃の様です。

高崎城の跡は、高崎市役所や
図書館などが建っています。




本丸や二の丸は見る影もありませんが、
三の丸の堀や乾櫓、東門などが残り、
当時の様子を僅かながら伝えています。



【高崎城へのアクセス】


JR高崎駅から西に800m程で、
三の丸の外堀に辿り着きます。




【高崎城登城記】



高崎城へはJR高崎駅の西口から
真っ直ぐ西に向かって歩きます。

途中で、新町諏訪神社がありました。



この神社は、慶長4年(1599年)に箕輪城下の
下ノ社を勧請したそうで、井伊直政が高崎に
お城を築いた際にこの地に移されたそうです。

街中に思いがけずに高崎城ゆかりの神社を見つけ、
なんだか得したような嬉しい気持ちになりました。

この先で、高崎市役所が見えてきました。



東京都心の高層ビル群に有りそうな
とても立派な建物です。

この高崎市役所は、高崎城三の丸跡に建っています。


この高崎市役所の手前に、高崎城
三の丸の外堀が残されていました。



この三の丸外堀は、高崎城をコの字に囲むように
南北約700m、東西約500m程に亘り、
ほぼ完全に残されているようです。

高崎市役所の手前の辺りは、横矢が掛かるよう
外堀が一部東に張り出していた辺りで、
堀が折れ曲がっている様子が見てとれます。

外堀に沿って土塁も残されていました。



高さ3m程の土塁が堀の内側に続いています。
土塁からの外堀の眺めです。



今は市街地化の波が城址まで届いている高崎城ですが、
この土塁からの眺めは当時を彷彿とさせてくれます。

土塁の内側は、公園の様に整備されていました。



この辺りからは高層ビルの高崎市役所を
聳えるように仰ぎ見る事が出来ます。



この三の丸の南側には高崎公園という
小公園があり、そこにも立ち寄ってみました。

城址内にあった絵図では、ここは
当時、大築寺があったそうです。



公園内には安藤重信が植えさせたと
伝わるハクモクレンも残っていました。

樹高14m、根元の周囲は4mもある大木です。

この高崎公園の西側には烏川を眺める事が出来ました。



高崎城の西側の護りとなっていた川です。
滔々と流れる烏川は西からの敵の
侵入を防いでいたと思います。

この烏川を背に、東に向く高崎城は
関東平野の抑えとなっているようで、これを
家康は重臣・井伊直政に期待したのでしょうか。


この後、高層の高崎市役所から高崎城址を眺めてみました。
地上21階の最上階が展望ロビーになっていました。

高崎市役所から西の眺めです。
写真右端近くに本丸跡に建つ高崎市の
中央図書館なども見えています。



眼下に烏川が流れ、その右手、霞んでいますが
榛名山の裾野が広がっています。
この裾野の中ほどに、箕輪城があります。

そしてこちらは三の丸跡に建つ群馬音楽センターです。



その右側に続く緑は、外堀と土塁で
その杜の中に乾櫓、東門が残っています。

この日は真夏のうだるような暑さで、
冷房の効いた展望ロビーは格好の休憩になりました。


高崎市役所の展望ロビーから、乾櫓と東門を訪れました。
高崎市役所の北側に続く三の丸外堀の様子です。



この辺りは一直線状に堀が続いています。
土塁の木々が堀に枝を伸ばしていました。


この外堀に沿って200m程北に向かうと乾櫓がありました。
群馬県の文化財に指定されています。
17世紀末頃に建てられた現存の櫓です。



明治以降払下げとなり、近郊の農家の納屋として
使われていたものを現在地に移築復元したそうです。

この乾櫓のすぐ隣に東門がありました。



元々はこの地から200m程南にあった通用門だったそうです。
東門は1798年(寛政10年)と1843年(天保14年)に火災に遭い
その後再建されたと考えられているようです。

築城当時は騎馬のまま通る事が出来た門は
その高さが低くなっています。
一説に二ノ丸にあった藩主居宅の門と言われているようです。

この乾櫓や東門のある辺りは、石垣も復元され、
当時の高崎城の雰囲気を残しているようでした。





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