越前大野城
Echizen Ohno Castle, Japan


登城日:
2010. 7. 11







【越前大野城概要】


越前大野城は、1575年(天正3年)に織田信長から越前国大野郡を
与えられた金森長近が翌年から築城を開始したお城です。
築城から5年後の1580年(天正8年)に完成しています。

江戸時代になると福井藩主・松平秀康の家臣・
土屋正明が城代として越前大野城に入ります。

土屋正明が松平秀康に殉死すると、秀康の
三男・直政、六男・直基が城主となります。

その後、1682年に土井利房が藩主となると
以降、明治まで土井氏が藩主として
越前大野の地を治めました。


大野城は亀山という、大野盆地の小高い丘に築かれています。




大野城は亀山の頂の上に天守が建っていた本丸、
その東の麓に二の丸、三の丸が築かれていました。



越前大野城のホームページに当時の絵図があります:
http://www.onocastle.net/visit/main/


天守は二層三階で、二層二階の小天守、
天狗櫓との複合連結式だったようです。
また城の東に城下町が築かれていました。

越前大野城の天守は、1795年(寛政7年)に
焼失すると、以降再建されませんでした。

いまある天守は1968年(昭和43年)に
鉄筋コンクリートで造られた模擬天守です。



【越前大野城へのアクセス】


JR越美北線、越前大野駅から徒歩20分程です。



越美北線越前大野駅の様子です。

越美北線の乗車記はこちらです。





【越前大野城登城記】




三の丸から本丸へ


2010年7月11日、一乗谷の朝倉氏館を訪れた後
越美北線に乗って越前大野城を訪れました。

一乗谷の朝倉氏館は予想以上に規模が大きく、
散策の時間もかかり、越前大野の滞在時間は、
越前北線のダイヤの関係もあり1時間20分程でした。


駅から歩いて15分程で、越前大野城の麓にやって来ました。



これは三の丸の堀跡でしょうか。
じっくり眺めておきたいですが、時間が限られて
いるので、亀山の山頂にある本丸を目指しました。

麓から眺める越前大野城の模擬天守です。



天守は標高249mの亀山の上に建てられていました。

麓の三の丸跡から天守を目指しました。
神社の鳥居をくぐると、立派な石碑がありました。



幕末、大野藩の家老で、藩政改革の中心となって
活躍し、財政再建や士風刷新に尽力したという
中村矩倫の碑です。

近くには、同じく幕末期の家老・内山良休の碑もありました。

この先にあった亀山の麓の柳廼社(やなぎのしゃ)です.



歴代大野藩主の祈願所かと思いましたが、
幕末の大野藩の名君・土井利忠を祀る神社で
明治になって創建されたそうです。


柳廼社(やなぎのしゃ)の奥に模擬の城門があり
ここが越前大野處の登城口になっています。



コンクリートで固められ道幅の広い登城道でしたが
途中で、細い道が分かれていました。



後で調べてみると、この道が百闢ケと呼ばれ
往時は唯一の本丸への道だったそうです。

この時は時間の余裕がなく、しっかり確認せずに
広い道を歩いてしまい、失敗しました・・・

コンクリート舗装の坂道を上ると
石垣も見えて来ました。



上の写真右側は、この石垣に囲われた曲輪の様子です。
江戸時代の絵図には、この位置には曲輪は記されていないので
公園として整備された時に築かれたものでしょうか。

それとも、金森長近の築城時には、
尾根に築かれた曲輪の一つだったのでしょうか。


ここに土井利忠の像がありました。



ここの東屋に幕末の大野藩の偉業という
長文の案内板が掲げられています。

8歳で藩主となった土井利忠は、逼迫する藩政立て直しの為、
倹約令を発し、その一方で藩校を創設しているそうです。
また大野の産物を売る為大阪に大野屋を創設しています。
その際、麓に碑のあった内山良林が活躍したようです。

時間の余裕はありませんでしたが、坂道を急いで登って
汗を掻いたので、ここで小休止しながら案内板を読んでいました。


この曲輪から堀切に架かる橋を渡り、隣の曲輪に渡ります。



この曲輪の先に急な階段がありました。

当時は階段など無かったでしょうから、ここに曲輪があったとすると
この先の高低差だけでも、守りになっていた事と思います。

この先の急な階段を上ると、再び城門がありました。



この門も模擬かと思います。
この門から先が江戸時代の絵図に記された本丸です。

この城門を抜けると正面に復元の
模擬小天守が見えてきました。



石垣に囲まれ一段、高い位置にある
天守の手前下に、お福池がありました。



築城城主の金森長近の側室・お福の方に
ちなんで名付けられたそうです。

この池の水は山頂にあるにも関わらず
枯れることが無かったそうです。




武具蔵〜天守〜麻木櫓


小天守の下から、いよいよ天守へと向かいます。

お福池の手前、石垣に囲まれ、一段高い所が
武具蔵のあったところでした。



天守へは、橋を渡って進みます。
小天守の脇を抜けた行った所に大天守の入り口があります。



当時の越前大野城は、南側に大天守、北東に
小天守があったので、今の配置とは異なっています。

当時の大天守は望楼型の2重3階、
小天守は2重2階だったようです。

1775年(安永4年)の火災で焼失し、江戸時代には再建され
ませんでしたが、1968年(昭和43年)に模擬復元されています。

資料館となっている模擬天守に上り、
越前大野の街を見下ろしました。



越前大野城の東に広がる市街は、
金森長近が発展させた城下町です。
短冊形の町割りを基本にしているそうです。

越前大野城の模擬大天守です。



当時の絵図などを参考に建てられたそうです。
天守台の石垣です。



越前大野城の石垣は、そのほとんどが野面積だそうです。
切り出したままの石を積み重ねた様子は
なかなかいいものです。

天守を後に、本丸の北に向かいました。



振り返って眺める大天守です。
鉄筋コンクリート製ながら、当時の絵図に
基づいている為か、あまり違和感はありません。

この先、番所の長屋門跡がありました。



門跡からスロープが続いていますが、その左には
石垣で囲われた一画がありました。

ここに築城城主・金森長近の像がありました。



越前大野城の城主となった長近は
本能寺の変の後に秀吉に従い、
その後飛騨を拝領します。

高山城や増島城、小倉山城などを築いています。

増島城の登城記は
こちらです。


この一段下に、立派な越前大野城の城跡碑がありました。



城址碑の下には、曲輪上の平地がありました。
東屋も建っていますが、その奥に当時は
麻木櫓があったようです。



ここから更に下ると石仏もあるようですが
帰りの列車の時間が気になり、
ここで引き返す事にしました。


越前大野城は、最近では大野盆地に
発生する霧に浮かぶ様子が有名になり、
天空の城としても売り出しているようです。

また鳩門と不明門が移築され現存しているようです。



"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る