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飯田城は、室町時代に坂西氏によって
築かれたのが始まりとのことです。
戦国時代にかけ、飯田のある下伊那谷には
140もの館城があったそうですが、
武田信玄の勢力が下伊那にも及ぶようになり、
1554年(天文23年)には、飯田城も
武田氏の支配下に置かれたそうです。
1582年(天正10年)には織田信長が下伊那を支配し、
秀吉の時代にかけ、毛利秀頼、京極高知が城代を勤めます。
江戸時代に入ると、飯田には5万石の藩が置かれ、
初代の城主は小笠原秀政がなりました。
その後、伊予大洲から脇坂氏が藩主となります。
脇坂氏が播磨の竜野に移封されると
下野・烏山から外様の堀氏が2万石で
藩主になり、明治を迎えています。
飯田城は小笠原氏、脇坂氏の時代に整備されたようです。
城下の東の端、天竜川の断崖に面した位置に本丸があり、
その西に二の丸、三の丸と続く縄張りだったようです。
JR飯田駅の東側、駅前からの緩やかな坂道を
1.5km程行くと図書館があります。
その図書館の脇に、飯田城の遺構がありました。
三の丸にあった桜丸御門です。
1754年(宝暦4年)の建立とのことで、
赤く塗られた門の様子が印象的で、
別名、赤門と呼ばれています。
この桜丸御門を過ぎ、東にしばらく行くと
二の丸御門跡がありました。
この二の丸御門は飯田市内の
民家に移築されているそうです。
門跡の東側の二の丸跡には近代的な美術館が建ち
その前に、土塀が現れてきました。
この土塀は、本丸へと続く二の丸大通り跡を模しています。
飯田城址には、図書館や美術館そして、民家も建ち並び、
城址という趣はあまり感じないのですが、さすがに
こうした土塀があると城址らしい雰囲気になります。
土塀の前には御用水が復元されていました。
そして、二の丸跡に、立派な大木が立っていました。
この木はエドヒガンザクラだそうです。
樹齢推定350年以上、樹の高さは20mに達します。
二の丸のこの地には家老・安富氏の邸宅があったので、
“安富桜”と呼ばれるそうです。
美術館の東側に、深く切れ込んだ地形がありました。
この切れ込みは、二の丸と本丸とを
隔てていた堀切とのことです。
美術館からはコンクリート製の橋を渡って、
本丸跡に行く事が出来ます。
本丸跡は、長姫神社の境内になっています。
飯田城の別名は長姫城というのですが、
この本丸に神社が出来た由来は何なのでしょうか。
下の写真は境内にある観耕亭碑です。
この碑は飯田城主、堀親義候の名君の誉れや、
城外の山水の様子を眺めるのに、
農民の邪魔になると、城中の小亭を作り、
そこから眺めたという逸話をしたものだそうです。
本丸跡には柳田國男や日夏耿之介にちなんだ館もありました。
この写真は、飯田生まれの日夏耿之介館です。
この先には、三宜亭本館という旅館が建っていました。
この曲輪は山伏丸という曲輪だったようです。
その山伏丸から眺めた南アルプスの山々です。
飯田城の遺構としては、この他に水の手門(搦手)の
石垣とかも有るようですが、見逃してしまいました。
城内の所々は、遺構を復元していますが、
残念ながら当時の様子を思い起こさせる
までには至っていません。
城内にある近代的な美術館が城址の
雰囲気とは不釣合いなのも一因と思います。
飯田市のホームページを見ても飯田城祉に関する記載は見当たらず、
もう少し、地元でのお城を残す活動が盛んになればと思いました。