高島城に近づくとお堀の向こうに
3層の天守が聳えていました。
この姿に思わず感嘆の
声を上げてしまいました。
高島城は北側と東側は
水掘で護られています。
水掘に架かる冠木橋を
渡って城内に入っていきます。
冠木橋を渡った先にある、冠木門です。
高島城の大手口にあたり、立派な櫓門です。
当時は薬医門か高麗門だったそうです。
高島城の本丸の様子です。
図の上側が南、下側が北になっています。
本丸と北側と東側は水堀が築かれ
櫓も建てられていますが、
南側や西側は手薄になっています。
築城当時は高島城のすぐ
西側が諏訪湖だった為に
このような造りになっていますが、
江戸時代には既に干拓され、お城の
すぐそば迄、田圃が広がっていたそうです。
本丸の北には二の丸、
三の丸と繋がっていたようです。
本丸の中央には庭園が造られていました。
当時は御殿が所狭しと
建てられていたと思います。
本丸中央、西側にあった御川渡門です。
三之丸御殿の裏門が移築されています。
築城当時はここから船で諏訪湖に
漕ぎ出す事が出来たそうです。
川戸門を眺めた後、天守に登城することとしました。
先ほど、その姿を見て感嘆の声を上げた三重の天守。
1970年(昭和45年)に復元されたものです。
茶色い板張りがユニークです。
銅葺きの屋根は、当時は柿葺きだったそうです。
一段高い天守台への石段を
上がって天守に向かいました。
天守からの眺めです。
築城当時には諏訪湖に浮かぶお城だった
高島城も江戸時代から諏訪湖の干拓が進み
今では諏訪湖は住宅地の向こう
かなり遠いところに少し見えるだけです。
この日は生憎の天気で、諏訪湖を
取り巻く山々は雲に隠れてしまっていました。
こちらは本丸の北側の水堀です。
赤い橋は先ほど渡った冠木橋です。
天守からの眺めを堪能した後、
再び本丸内を散策しました。
天守の近くにあった、石枡です。
1800年頃、三の丸の浴場に
お湯を引く為に使われていたそうです。
苔むしていて、庭の置石のようになっていました。
下の写真、手前右側の石は亀石です。
城内の庭園にあった石ですが、水をかけると
願いが叶うという言い伝えがあるそうです。
本丸の北東の角にある角櫓に向かったのですが
その途中、白樺と思しき木を見つけました。
お城跡に行くと桜やケヤキ、松といった木々は
よく見かけるのですが、白樺は珍しいです。
さすが信濃のお城です。
そして角櫓です。
ケヤキの大木の陰でひっそりと佇んでいました。
この角櫓も1970年(昭和45年)に復元されたようです。
電車の時間を気になったので角櫓を眺めたところで、
高島城を後にすることにしました。
天守のすぐ脇から城外に出ると
天守台の石垣を間近に見ることが出来ました。
丸い自然石を多用した野面積みです。
天守台の石垣は、下の石と上の石の色が異なり、
その昔、改修工事でも受けている様な感じもしました。
高島城からは車の走る大通りから一本西の
裏通りを通って上諏訪駅に向かいました。
本丸を出たあたりが二之丸だった辺りです。
そして三之丸橋を渡ると
古びた醸造蔵が建っていました。
この辺りは三之丸だったところで、
藩主の御殿が建っていたそうです。
当時の趣とは違った雰囲気とは思いますが
古い趣が残っていました。
高島城を訪れた際、丁度大河ドラマで放映されていた
「風林火山」にちなんだ幟が立てられていました。
この高島城のある諏訪の地は、
戦国時代も諏訪氏が治めていましたが
1542年(天文11年)に諏訪頼重が
武田信玄に滅ぼされています。
諏訪頼水が初代・高島藩主として、60年の後に、
再び諏訪の地を治めることになったのは、
諏訪氏にとって本領復帰の念願がかなった
画期的な事だったと思います。
ちなみに信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘で
後に信玄の側室となり、武田勝頼を生んだ
諏訪御料人、由布姫が住んでいた高島城は
諏訪湖を望む山の中にあるそうです。