日出城(暘谷城)
Hijii Castle, Japan
登城日:
2008. 12. 07
日出城は日出藩の初代藩主・木下延俊が
関が原の合戦の直後の1601年(慶長6年)から
築城に取り掛かり、翌年8月には入城したそうです。
初代藩主の木下延俊は、秀吉の正室・
ねね(北の政所)の甥にあたります。
日出城の別名は暘谷城で、三代藩主・木下俊長が
中国の古書「淮南子」から命名したそうです。
日出城は別府湾を望む高台に築かれています。
本丸には三層の天守が聳え、
また5基の櫓が築かれていました。
本丸の北側には二の丸、三の丸そして外郭と
曲輪が本丸を取り囲んでいたそうです。
二の丸、三の丸のあった日出の町や
藩主木下家の菩提寺・松尾寺の
様子はこちらです。
この日出城には2008年12月に訪れています。
その時の様子を紹介します。
JR日豊本線、暘谷駅下車。
徒歩約10分です。
【日出城登城記】
JR暘谷駅から日出の町に入り、
藩校だった致道館を過ぎると
海へと向かう下り坂になりました。
この坂道を下っていくと、立派な石垣で
区画された空堀が、いきなり現れました。
日出城本丸西側に築かれていた堀です。
高さは10mはあるでしょうか。
日出城は小さなお城と思っていたので、
この石垣と空堀には驚きました。
ここから石垣に沿って坂道を下っていくと
別府湾が見えてきました。
この海岸線に沿って、日出城の
本丸下の石垣が続いています。
この石垣の角のところに
小さな祠がありました。
日出城築城の際に人柱になった
老武士を祀る祠でした。
1960年(昭和35年)に城下の遊歩道を
整備していた際にこの場所で
木棺が発見されたそうです。
築城当時、城の南西のこの辺りは
地盤が弱く難工事であったと云います。
当時は、こうした人柱が
どこでも建てられていたのでしょうか。
石垣に沿って歩くと、日出城の石垣が
折り重なるように見えてきました。
このあたりからお城の築かれていた
高台への上り口がありました。
日出城本丸南西角にあった
望海櫓の石垣の下に出ました。
その脇あった小さな祠です。
こちらは、天守台の石垣です。
この天守台も望海櫓の櫓台の石垣も
野面積から切り込みハギと呼ばれる
様式の間の様な感じです。
この天守台の石垣の下から眺める
別府湾の様子です。
冬の日差しが海に輝いています。
風もなく穏やかな暖かです。
この2週間前に北海道に行った際には
氷点下15℃の雪景色を体験しているので
なんだか不思議な感じがしていました。
北海道の散策記はこちらです。
望海櫓の基台に、本丸への上り口がありました。
公孫樹の落ち葉が石垣に積もりとても綺麗でした。
ここを上ると本丸です。
今は、日出小学校になっています。
かつて御殿のあった辺りは校庭となっています。
本丸の東側にあった裏門櫓の位置に
鐘楼がありました。
1693年(元禄8年)、三代藩主木下俊長の代に
鋳造された釣鐘でこの鐘で時を知らせていたそうです。
時鐘から眺める日出城東側の海です。
この海の眺めも穏やかでのどかなものですが、
この海の先に、切れ込んだ入り江があり
そこは第二次大戦の折、人間魚雷天回の
基地になっていたそうです。
この時鐘から再び、天守台の下まで戻り、
日出城本丸西側の石垣に沿って
坂道を上っていきました。
写真、左手が日出城の石垣です。
石垣は2段になって積まれています。
石垣の角の算木積みが見事でした。
坂道を上っていくと、
先ほどの鐘楼が見えてきました。
かつての裏門櫓の櫓台も残っていました。
その右下の土橋は裏門へと続いていました。
この裏門櫓は、解体・保存されていましたが
2010年3月に復元されています。
日出城東側の石垣に沿って坂道を登り
高台に辿り着くと日出城の東側に
日出中学校が見えてきました。
かつて日出城の二の丸だったところです。
その反対側には日出城本丸北側の
空堀が深く切れ込んでいました。
上の写真左が本丸北東角にあった
鬼門櫓から大手門への土塁までの空堀、
写真右が大手門に繋がる土橋から
西側を眺めた様子です。
右側の写真の左隅には月見櫓が建っていました。
大手門の土橋のところには幕末に日出藩の
家老を務めた帆足萬里の像がありました。
帆足萬里は、日出藩の財政を再建し、
日出の町には彼にまつわる史跡が
いくつも残っています。
日出の町の様子はこちらです。
日出城本丸の周囲をぐるりと一周しましたが
この後、日出の町の北に残るという
日出城鬼門櫓を訪ねてみました。
鬼門櫓が移築されているのは、
日出城址から1km程北に向かった
山懐の住宅街です。
遠くから眺めるだけでしたが
古いお城の櫓は住宅街の外れに
ひっそりと建っていました。