鶴岡城は荘内藩14万石の居城だったお城です。
鶴岡はもともと大宝寺城と呼ばれ、
鎌倉から戦国にかけて庄内の地を
支配していた武藤氏の居城でした。
その武藤氏は1587年(天正15年)に滅び、
その後、上杉氏や最上氏が支配していました。
1603年(慶長8年)に最上義光の隠居城となり、
鶴岡城と改称されています。
1622年(元和8年)に最上氏の改易によって、
譜代の酒井忠勝が庄内14万石の藩主として、
この鶴岡城に入封しています。
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鶴岡城は本丸の周囲を二の丸が取り囲み、
二の丸の周囲に家臣や町人の暮らす
三の丸が広がる輪郭式の縄張りです。
本丸と二の丸の周囲には堀が築かれ、
城下を南北に流れる内川が外堀の
一部として利用されていたようです。
藩校だった致道館の斜め前が鶴岡城址です。
お堀に囲まれた城址の一角は
鶴岡公園として整備されています。
まず、目に付いたのは高山樗牛の銅像です。
高山樗牛は1871年(明治4年)に
鶴岡で生まれたそうです。
その銅像の脇のお堀の向こう側に
瀟洒な洋風の建物が建っていました。
本丸中門跡に建つこの建物は
1915年(大正4年)に大正天皇の
即位を祝い建てられた大寶館です。
城址には似つかわしい建物ですが、午後から
広がった青空に、白い建物が良く映えていました。
大寶館の前を通り、本丸跡に向かいました。
本丸跡には酒井氏の初代・酒井忠次、二代・家次、
三代・忠勝、九代 忠徳を祀った庄内神社がありました。
1877年(明治10年)創建の由緒ある神社です。
夏の例祭では江戸城西の丸で時を告げていた
大太鼓が鳴らされ、大名行列が行われるそうです。
庄内神社の立派な石の大鳥居です。
この辺りに二の丸の大手門が建っていたようです。
庄内神社の脇にはあやめ園がありました。
この辺りは当時、内堀だったところです。
見ごろは過ぎていましたが、5月には
綺麗な菖蒲が咲いている事でしょう。
このあやめ園から北に向かうと土塁が残っていました。
土塁は崩れかかり、木が生い茂っていましたが
これは鶴岡城に残る数少ない当時の遺構です。
土塁の一角が途切れ、鶴岡公園の出入り口になっていました。
当時、ここには外北門が建っていたようです。
内堀と外堀の間には当時二の丸だったところです。
今では広々とした空き地になっています。
二の丸を西に向かいます。
鶴岡城の北側から西側に
かけては外堀も残っています。
真っ直ぐに伸びる外堀の様子です。
鶴岡公園の西側の内堀は幅が広く
本丸跡の庄内神社の木々が生い茂り、
周囲の街中の景色とは別世界のような景色でした。
この内堀の様子を眺めた後に、
鶴岡公園の西隣にある致道博物館に向かいました。