二俣城
Futamata Castle, Japan


登城日:
2007. 05. 06







二俣城は天竜川が三河と遠江の間の山深い山地から
平地へと流れ出すところに築かれたお城です。

元々、二俣城は現在の浜松市天竜区役所の辺りにあった
笹岡城という城館の付け城の位置付けだったようです。


遠江二俣の旅行記はこちらです。
天竜二俣までの天竜浜名湖鉄道はこちらです。

地図はこちらです→ Mapion

今川義元が1560年(永禄3年)に桶狭間で戦死した後、
徳川家康が今川の勢力を三河から追い出した為、
その対抗として、1567年(永禄10年)に二俣城の
改修が行われ、要塞化されたようです。

しかしその翌年には二俣城は家康によって陥されたようです。
その後、武田信玄が、遠江への侵攻を始め、
1572年(元亀3年)には、武田勝頼率いる軍が二俣城を攻め、
二俣城は武田軍のものとなりました。

ところが1575年(天正3年)、長篠・設楽が原の戦いで
武田軍が織田・徳川連合軍に大敗すると、
家康は反攻を開始し、6月には二俣城は
再び家康の支配するところとなりました。

家康は重臣・大久保忠世を城代として送り込んでいます。
1579年(天正7年)には岡崎三郎信康(家康嫡男)が
この二俣城で自害しています。

岡崎三郎信康の自害の詳細に
ついては遠江二俣を参照下さい。
また長篠・設楽が原の古戦場の様子はこちらです。


関が原の戦いが終わり、大久保忠世が
小田原城主となって関東に移封すると
この二俣城も廃城となったようです。


この二俣城には、近くにある瀞龍寺の後に訪れました。
城址下の公園から坂道を上って行きます。

坂道の途中で左に折れ狭い道を上って行きました。



雨脚が強く、狭く急な坂道で滑り、歩きにくいです。
靴の中で靴下も濡れ気持ち悪くなってきました。

旭が丘神社の標識が見え、ここを真っ直ぐ
行ったところの階段を上ると石垣が見えました。

虎口が現れ、ここが二俣城の追手口だったようです。



城郭の様子が判らなかったのですが、
案内図によると、虎口の正面が二の丸、
左手に神社があり、右手に本丸があるようです。



右手の石垣の間を行くと芝生広場が
広がる二俣城本丸に至りました。

芝生広場の一角に天守台がありました。



この天守台は大久保忠世が
城主だった時代に築かれたようです。

天守台から眺める本丸です。



鶯が鳴いていますが、雨足が強く、
感傷に浸る余裕はありませんでした。

天守台の背後の木々の間から
天竜川が僅かに望めました。

当時は、天竜川に向かって曲輪が続いていて、
その先端、天竜川に突き出るように、
井戸櫓が建てられていたようです。



これは瀞龍寺に復元された井戸櫓です。
この櫓から釣瓶で天竜川の水を汲んでいたのですが、
1572年(元亀3年)の武田軍攻撃の際には、
この井戸櫓が筏で破壊され、二俣城は
武田軍のものとなりました。

井戸櫓のある瀞龍寺はこちらです。


天守台に上った後、二の丸の
周囲の土塁をぐるりと周りました。



木々が茂り、鬱蒼とした感じです。
当時はこの二の丸にもお城の
建物が建っていた事でしょう。

二の丸の一角に、木々に覆われて
しまった神社がありました。




二の丸を訪れた後、本丸を
横切り北曲輪に向かいました。



本丸北側の食違い虎口です。

この虎口を抜けると、北曲輪跡に建てられた
旭が丘神社への橋が架かっていました。
当時は、本丸と、北曲輪の間に
堀切があった事でしょう。

旭が丘神社は日露戦争の戦没者を祀った
明治以降に創建された神社です。



この北曲輪跡の北側には更に堀切があり、
こちらが搦め手口だったようです。
車で来るとこちらからアプローチすることになります。
歩くとセンサーで案内放送が流れる仕組みがありました。


ここから再び、二の丸まで戻り、二の丸の更に
奥にある蔵屋敷、南曲輪に向かうことにしました。

二の丸から先は草が生い茂った道です。



心細いですが、折角来たのだからと
言い聞かせる様に狭い道を下って行きました。

道が折れ曲がりながら下って行きます。
これでいいのかなと不安になりかけたら、
遊具が置かれた狭い曲輪跡が現れました。



その先に天竜川が見えてきました。



本丸跡からは木々に遮られて天竜川が
はっきりと見えなかったので、
ここまで来た甲斐があったと思います。

この道を更に下ると天竜川の堤防に出ました。




雨が強く、なかなか当時の雰囲気に
浸る事は出来なかったのですが、
見所はすべて見られ、充実した訪城となりました。



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