伝堀越御所
Ruin of Horigoe Gosho Palace, Japan


登城日:
2009. 02. 13







【伝堀越御所概要】


室町幕府の関東支配は、鎌倉に公方を置き、
その補佐役の関東管領や諸国の公方や
奉行衆らによって行われていたようです。

15世紀の中頃、将軍・足利義政の頃になると
室町幕府の勢力は弱まり、1454年(享徳3年)には
5代目の鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺し、
これをきっかけに関東一円に享徳の乱と呼ばれる
騒乱状態になったようです。

1458年(長禄2年)に、将軍・足利義政は、
弟の政知を鎌倉公方として派遣するものの
関東に入れず、この韮山に居を構えたそうです。

守山の北側の北条氏の居館跡に
政知の居館である堀越御所が建てられたそうです。


室町幕府の権威の失墜も甚だしいものがありますが、
この時以降、足利成氏が古河に移り開いた古河公方と
足利政知の堀越公方との二重権力構造が
続くことになったそうです。

地図はこちらです→ Mapion




【伝堀越御所へのアクセス】


伊豆箱根鉄道駿豆線、韮山駅下車。
韮山駅の南西、約800m程のところです。
徒歩約10分です。

伊豆箱根鉄道駿豆線の乗車記はこちらです。




【伝堀越御所訪問記】


堀越御所が築かれていたと云われているのは、
韮山の成福寺のやや南のあたりです。




現地案内板にあった、伝堀越御所跡の空撮写真です。

写真、中央の空き地になっているところが
史跡に指定され、発掘作業が行われているようです。

北条時宗のお墓のある成福寺から南に向かい
集落の中の四つ角を右に折れると
伝堀越御所の跡地が見えてきました。

成福寺の様子はこちらです。




広々とした敷地の片隅に木が茂っていました。
発掘調査では庭園跡や排水溝の
跡が見つかっているそうです。

伝堀越御所の真ん中を通る道から
南側の史跡跡を眺めた様子です。



この南側の空き地の端に、
北条政子産湯跡の井戸が残っています。



1157年(保元2年)にこの地に生を受けています。
北条政子が、この地で源頼朝と出会ったことで
後の日本の歴史が大きく影響を受けています。

そんな北条政子の産湯の井戸ですが、
石垣の下に、飾り気のない小さな井戸が
素っ気無く放置されているようでした。


北条政子の産湯井戸から
伝堀越御所跡の真ん中を
東西に貫く道に戻りました。

御所跡に生えている木々の様子です。



当時の建物の跡はどこに、
どのように建っていたのでしょうか。


史跡の西側には住宅地が広がっています。



生垣が続き、江戸時代の武家屋敷のような佇まいです。
平安時代末期には、北条氏の居館が、
室町時代には堀越御所の建物が
このように建ち並んでいたのでしょうか。


堀越公方・足利政知は1491年(延徳3年)に亡くなり、
その子、茶々丸が堀越公方を継ぎますが、
伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)に
攻め滅ぼされてしまったそうです。



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