清洲城
Kiyosu Castle, Japan


登城日:
2006. 07. 02





清洲城模擬天守閣



清洲城は名古屋市の北西
7km程のところにあるお城です。

地図はこちらです→ Mapion


清洲城が築城されたのは1405年のことです。
室町幕府の管領・斯波義重が守護所の
下津城(現稲沢市)の別郭として築いたものでした。

その後、斯波氏の有力武将だった織田氏が
勢力を伸ばしこの清洲城を居城にしています。

1555年(弘治元年)には時の城主織田信友を討った
織田信長が那古野城からこの清洲城に移り、
美濃攻略の為小牧山城に移る1563年までの
8年間をこの清洲城を居城としていました。


その清洲城に2006年7月2日に行ってきました。

名鉄・新清洲駅からお城を目指し、
五条川に沿って堤防道路を歩いていくと
左手にちょっとした公園が見えてきました。

この清洲公園には、
織田信長の像がありました。



この清洲公園を過ぎ、
新幹線と東海道本線のガードをくぐると、
五条川の向こう側に、復興された
清洲城の天守閣が見えてきました。



この天守閣は、1989年に建てられたものですが、
残念ながら史実に基づいたものではありません。

当時の清洲城は川を挟んで
模擬天守閣の反対側にあったそうです。
その跡地は、清洲古城公園となっていて、
まずはそちらに行って見ました。

堤防道路沿いに、石垣跡がありました。



大小の石を組み合わせた
野面積みの石垣が復元されています。

さらに奥に入っていくと、清洲城の城碑と
信長を祭った祠がありました。



信長の居城だった清洲城ですが、
その後も豊臣秀次や福島正則ら重要な人物が城主となり、
徳川幕府成立後には、家康は九男・徳川義直を
城主として、この清洲に配しています。

そんな清洲城ですが、家康は1610年に
名古屋城へ遷都するように指示し、
この清洲城は廃城となってしまいました。

清洲城の天守も取り壊され、
名古屋城の西北櫓に
その古材が使われているそうです。

名古屋城の様子はこちらです。

最盛期には東西1.6km、南北2.8kmにも及んだ城下も
廃城とともに廃れ、今ではこの碑が残るのみです。


この城碑を眺めた後、模擬天守閣に行って見ました。

五条川に架かる大手橋を渡り
天守閣に向かいます。



朱色の欄干が彩りを添え、
当時の清洲城もこのような
景観だったかと思えてきます。

模擬大手門をくぐり、大手橋の方向を振り返りました。
写真右手には御殿風の建物も復原されています。



三層の天守閣に上り、一番上の天守閣から
元々の清洲城の跡地を眺めました。

清洲城の天守閣があった辺りを
新幹線と東海道本線が横切っていました。



清洲城は、信長の居城だったというだけでなく、
日本の戦国時代の歴史の舞台に何度か登場しています。

信長の居城だった1555年から1563年までの間、
1560年には桶狭間の戦いがあり、
信長は、この清洲城から出撃しています。

また、信長暗殺の後の織田家の後継者や
所領分割を決めるための会議が
行われたのもこの清洲城です。

この会議は、「清洲会議」と呼ばれ、
後に秀吉が天下を取るに至った
重要なターニングポイントに
なったと謂われています。

更には、関が原の戦いの時には、
家康率いる東軍の後詰めの城として
重要な役割を果たしています。

模擬天守閣から城址の辺りを眺めながら、
当時の様子を想い浮かべていました。

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