長沢城
Ruins of Nagasawa Castle, Japan


登城日:
2010. 05. 30







【長沢城概要】


長沢城は、東三河と西三河の境にあり、
両地を結ぶ街道(後の東海道)が通る隘路に
設けられていて、交通の要衝に築かれたお城です。




この辺りは三河山地が南西に舌状に伸び、
西三河の岡崎平野と東三河の豊川平野を隔て、
狭い山間に、東名高速道路、国道一号線
そして名古屋鉄道と、主要な交通ルートが
現在でも集中しています。

岩津城に本拠を置き、松平氏の勢力を広げた
松平氏3代目の信光の子・親則がここに
本拠を構えたのが始まりと伝えられます。

岩津城の登城記はこちらです。




当時、この地には長沢城の南の山に岩略寺城があり
そこに今川氏の一族、関口氏が居を構えていました。
1458年(長禄2年)に、松平信光が攻め落としたようです。

松平親則は、長沢松平の祖となります。
長沢松平氏九代の康直は武蔵国深谷藩一万石の
藩主となりますが、24歳の若さで亡くなり、
家康の7男・松千代が後継となり、その松千代も
若くして亡くなると、6男・忠輝が長沢松平を継ぎました。

その忠輝は越後高田藩75万石の大大名となりますが
大坂の陣の際の行いを咎められ改易となってしまいます。
父である家康から生涯嫌われたとも伝わります。



【長沢城へのアクセス】


長沢城は、名古屋鉄道本線の名電長沢駅の
南東200m程の所にあります。


名古屋鉄道本線の乗車記はこちらです。


駅から歩いて5分程の、高台にある住宅地から
長沢小学校にかけてが長沢城の城址です。




【長沢城登城記】



2010年5月30日、岡崎の山中城を訪れた後、
この長沢城を訪れました。

三河山中城の登城記はこちらです。


名古屋鉄道本線の名電長沢駅の南東に向かうと
一段と高くなった地形が現れました。



長沢城はこの高台にあったようです。

高台の南側は国道1号線の堀切となっていました。
国道1号線に面した所に、いくつか碑が立っていました。



城址碑かと思いましたが、過去の戦争で
亡くなった方の慰霊碑でした。

国道一号線が今のところを通るようになったのは
いつの頃なのか、これらの碑が建てられたのは
それよりも前なのかどうか、わかりませんが
こうした碑はお城の本丸に立てられる事が多く
ひょっとするとここが長沢城の本丸跡かもしれません。


この碑の下側に長沢城の井戸の跡がありました。



この井戸跡は数少ない長沢城の遺構です。

井戸跡から再び碑のある小公園に戻り、
長沢城の東側に向かいました。
その途中、民家の庭先に碑がありました。



比較的新しい碑の様にも見えましたが
裏側を見ると松平源七郎親○建立とありました。

○の字が掠れて読めなかったのですが、
長沢松平氏は代々、源七郎の名を有していて、
江戸時代以前のものではないかと思われます。

ここから住宅地の中に分け入っていきました。



その一角に石垣の一部が残り、
長沢城の城址碑が立っていました。



城址碑から長沢城の東側に向かいました。
高台から一段低い田圃から眺めた様子です。



長沢城が高台にあった様子がよく判ります。
東側には堀の跡が残っているということですが
その跡はわかりませんでした。

ここから国道一号線の下をくぐり南側に出ました。



南側には長沢小学校があります。
この長沢小学校の校舎の裏に
長沢城の石垣があります。



長沢城は南側に3重に堀を重ねていたそうですが
この石垣はその一部でしょうか。
思ったよりも石垣が良く残っていました。



近くには長沢城門跡の碑もありました。


長沢小学校の西側には保育園があり、その横に、
小高い丘陵地へと繋がる階段がありました。



階段を上って行くと古い石碑がありました。



1300年(正安2年)に建立された
三尊種子板碑です。

三文字の梵字が刻まれ、「金剛界大日」
「釈迦」そして「胎蔵界大日」を意味しているそうです。

この碑は、愛知県下で最も古い碑との事です。

この奥にお堂がありました。
観音堂です。



長沢松平氏初代の親則が築城の際に
建てたものと言われているようです。

このお堂を訪れた後、国道一号線に出てみました。



北側の井戸跡や城址碑があった高台と、
南側のお堂のあった丘陵地とは
国道によってぷっつり分断されています。



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