野田城は愛知県新城市にある
戦国時代の平山城です。
地図はこちらです→
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1572年(元亀3年)12月、三方ヶ原で徳川家康を
打ち破った武田信玄は真っ直ぐに西に向かわず、
何故か東三河のこの小城に攻めかかります。
年が明けた1573年(天正元年)1月、
武田軍1万2000、これに対し迎え撃つ
野田城には主将の菅沼定盈はじめ、
僅か400人程だったそうです。
この野田城は1508年(永正5年)に
菅沼定盈の祖父、菅沼定則が築城を始め、
1516年(永正13年)に入城したお城です。
1590年、徳川家康の関東移封に伴い、
菅沼定盈もこの地を後にした為、
廃城になったそうです。
野田城の縄張りは、丘陵地になっている西側から
三の丸、二の丸そして本丸が一列に並ぶ
連郭式の単純な作りになっています。
この時は珍しく車でのお城巡りで、
丁度二の丸の標識の前辺りに
スペースがあったのでここに車を
停めてお城巡りに出掛けました。
二の丸から城址に入りかけたのですが、
三の丸にも入り口があるのに気付き、
三の丸から順番に本丸まで行く事にしました。
上の写真、左手が野田城址。
東に向かって撮った写真なので、
道路は野田城址の南側を走っています。
先ほどのお城の案内図によると、
この道沿いのすぐ下のところに
武田方の金堀人足が水の手を断つ為に
穴を空けた所という印がされているので、
武田方はすぐ近くまで攻め入っていたのでしょう。
三の丸から再び野田城址に立ち入りました。
といっても、城郭だったところには木が生い茂り、
廃城後400年の時を経て、城址は自然に還っているようです。
でも大きな木の根元に小さなお地蔵さんがありました。
林の中を東に向かっていくと、
少し地面が盛り上がっていました。
ここが多分、三の丸と二の丸の境だと思います。
この僅かに盛り上がった土塁を乗り越えると
再び沢山の木々が生い茂った平地が広がりました。
ここが二の丸跡です。
ここも単なる雑木林にしか見えません。
二の丸跡の一角に木切れに
「愛犬バンの墓」と書いたお墓がありました。
近所の子供が飼っていた犬の
お墓を作ってあげたのでしょう。
二の丸から更に東に向かうと、
大きな堀切がありました。
この堀切は、木が生い茂っていても
よく判りました。
二の丸と本丸を区切っています。
本丸には野田城址碑が立っていました。
日が半分あたり、写真では
「野田城址」の字が見えづらくなっています。
本丸は下草が刈られ、城址碑の前から
本丸の隅にある稲荷神社へ、そして
更に東に伸びる道が伸びています。
道に沿って苔が生え、趣がある光景でした。
そして、下の写真は本丸の東側でみつけた土塁です。
宮城谷昌光さんの『古城の風景』という
三河地方の古城を巡ったシリーズ本に、
この本で、野田城は横矢と土塁の
遺構が良く判ると書いてありました。
横矢の遺構は良く判らなかったのですが、
土塁はこの土塁をさしているのでしょうか。
本丸の片隅にあった稲荷神社。
赤い鳥居が続いています。
ここには足を運ぶ人もいるのでしょう、
綺麗に下草も刈られていました。
この本丸から東は、丘陵地が尽き、
鳥居から続く道を下っていきます。
城址の案内図によるとこの周囲には
侍屋敷があった筈のところです。
石の鳥居を抜けると丘陵地の藪を抜け、
明るい冬の日差しを浴びる山里に出ました。
丘陵地の縁に沿って家が並び、
その先をJR飯田線が走っています。
右手に折れて歩いていくと、
野田城の南側の低地にお寺が見えました。
法性寺です。
この野田城攻めの際には、敵兵の笛の音に聞きほれた
武田信玄が陣中から出てきたところを鉄砲で撃たれ、
それがもとで命を落としたという俗説があるのですが、
信玄が打たれたのが今の法性寺の境内で、
その場所には小さな石塔もあるそうです。
この時には知らずに、見落としてしまいました。
集落を抜け、野田城の下を走る飯田線の
線路の向こうには田圃がずっと広がっています。