深溝城
Fukozu Castle, Japan


登城日:
2010. 5. 08







【深溝城概要】


深溝城は、後に島原藩主となった
深溝松平家の本拠地だったお城です。


深溝城は愛知県幸田町の南側、
JR三ヶ根駅の北側200m程の所にありました。

三河湾と三河平野を隔てる遠望根山と三ヶ根山の間の地溝にあり、
平地は少ないのですが、交通の要衝だったと思われる所です。





深溝城を築城したのは大庭次郎左エ門朝満と伝わります。

深溝の築城年は1231年(寛喜3年)とも1332年(正慶元年)とも
言われているそうですが、大庭次郎左エ門朝満が
菩提寺の長満寺を1332年(正慶元年)に開いたので、
この年に築城されたものと思います。

深溝松平氏の旧臣・牧朴真が記した深溝紀略によると
1524年(大永3年)に松平忠定が、深溝城主・
大庭次郎左衛門主膳を攻め落としたそうです。


深溝松平氏は、その後この深溝周辺の小藩の藩主から
4代家忠公の時に家康の関東移封に伴い、
忍藩主や小見川藩主を務め、その子、5代忠利公の時に、
再び深溝に戻り、その後三河吉田藩主となり、
6代忠房公の代に刈谷藩、福知山藩と転封を続け
1668年(寛文8年)に6万5000石で島原藩に入っています。

その後、10代忠まさ公の時に宇都宮藩主となりますが、
11代・忠恕(ただひろ)公以降再び島原藩主となっています。


深溝城の城主は、1614年(慶長19年)に板倉重昌氏となり、
1638年(寛永15年)の島原の乱で板倉重昌が戦死し
次男・重直が8000石で継ぎ以降は
陣屋として明治に至っています。



【深溝城へのアクセス】


JR三ヶ根駅から徒歩約5分です。




【深溝城登城記】



2010年5月8日、深溝城近くの本光寺に
立ち寄った後深溝城址に向かいました。

本光寺の様子はこちらです。


本光寺から住宅地の中を行きました。



小高い丘の上に建つ三協という会社の
敷地が当時の深溝城址だったそうです。



この会社の敷地に面して城址碑が立っていました。



深溝城の痕跡を今にとどめるのはこの碑だけです。

会社の敷地には入れないので、
その裏手の田圃の方に行ってみました。

城址に建つ会社の裏側には
土塁跡と思われる土の山もあります。
その左手には田圃が広がっていました。



この辺りの地名は丸ノ内です。
当時は、重臣達の屋敷が並んでいたのでしょうか。

丸ノ内の田圃を過ぎ、細い道を左手に曲がると
段丘から低地へと一段下がっていました。

低地の向こう100m程の所には
大きな屋根のお寺も見えています。

その段丘から低地へと差し掛かる
辺りに案内板が立っていました。



この地名は「兵九下」と言いますが、
案内板にはその謂れが書かれていました。

それによると、松平忠定が深溝城主の
大庭次郎左衛門主膳を攻めた際、
城側の兵九というものが叛き
忠定を城内に招き入れたそうです。

この辺りの地名は兵九下です。

低地に広がる田圃の向こうの丘陵地に
大庭氏の菩提寺の長満寺が見えていました。



この後、長満寺に向かいました。

長満寺の様子はこちらです。


長満寺から眺める深溝城址の様子です。



お城があった一段高い段丘の様子が良く判ります。

500年程前、この地で興った戦の当時、
どんな様子だったのかと頭を巡らせようとしましたが
この長閑な景色からは、想像も出来ませんでした。


深溝城は、城址碑もあるように
JR三ヶ根駅の北側にあったようですが
駅の南側にもあったという説もあるようです。

三ヶ根駅西口を出て道路の向かいに建つ
御祖神社に向かいました。



急な石段を上り、神社の境内に辿り着きました。



神社の裏の丘陵地にある深溝小学校が
もう一つの深溝城跡と云われているようです。


神社から脇の道に出て小学校を目指しました。



こちらの丘陵地は傾斜が厳しく
坂道も急になっています。

坂道を登ると視界が開けてきました。
東から北にかけての眺めです。



狭い山間にある深溝の地から、
北に広がる三河平野が望めます。

大庭氏が敗れた1520年代というと、
安祥松平氏の松平清康が勢力を伸ばし
三河統一を目指している時期に重なります。

この深溝の小豪族に過ぎなかった大庭氏にとって
三河平野を次々に手中に収める清康の
成長ぶりは大きな脅威だった事でしょう。

深溝小学校入口です。



ここから坂道を少し上り校庭を眺めてみました。



高台にある深溝小学校は、
城を築くには絶好の位置と思いましたが
遠目からはその痕跡は見当たらず、
もとより校内には入る事が出来ませんでした。



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