三河 山中城
Mikawa Yamanaka Castle, Japan


登城日:
2010. 5. 30







【三河山中城概要】


三河山中城は、戦国時代に岡崎城主だった
西郷信貞が居城としていたお城です。


1524年(大永4年)に安祥城の松平清康が
この山中城を急襲し、破れた西郷氏は
城を追われ、清康に従う様になり、
大草に居城を移します。

松平清康が守山で暗殺され、松平氏が
今川の軍門に下ると、今川氏がこの
山中城を管理する様になります。

桶狭間の戦いで今川義元が斃れ、
松平家康が西三河を支配すると、
東三河攻略の足掛かりにしたそうです。



山中城は標高196mの山頂に主郭があり、
東西400m、南北200mもの規模があり
愛知県でも最大級の山城という事です。

山中城は主郭と二の郭が連なる連格式で
尾根に沿って他にも曲輪が東、東北
そして西北に広がっています。



【三河山中城へのアクセス】


三河山中城は名古屋鉄道本線の
名電山中駅の南西1km程の所にあります。





名電山中駅から徒歩20分程でしょうか。




【三河山中城登城記】



三河山中城を登城したのは2010年5月30日です。

三河山中城は名電山中駅から南に下り
桑外へと向かう街道沿いの西側の山にあります。



街道に沿って丘陵地の間に田圃が広がり
山中城はその田圃の向こうにありました。

東西2つの登城口があり、その登城口を結び
山頂の城址を通る遊歩道が整備されています。

西側の登城口から分け入る事にしました。



しばらくは山肌の杉木立の間に続く
舗装道路を歩いて行きます。

不意に墓地が現れ、その先に登城路が
山の斜面へと続いていました。



ここから急斜面を上ると、尾根に出ます。
その尾根に堀切が設けられていました。



この堀切が、山中城の西側の城域の外れと思います。
ここから尾根道を進み、主郭を目指しました。

城址はあまり整備されておらず、標識や
案内板も無く、城郭図も持っていないので
どれが中世の古城の遺構なのか、
見過ごしてしまいそうです。



これは、横堀と思います。

この先、坂道を上って行くと、
腰曲輪のような地形も認められました。



遊歩道に沿って坂道を上って行きます。



やがて虎口が見えてきました。



日が差しこみ、幽玄な雰囲気です。
この虎口を抜けると二の郭が広がっていました。



それまで歩いて来た鬱蒼とした木々の景色からは
事なり、二の郭は広い削平地になっていました。

長さは 70から80m、幅30m程はあるでしょうか。
曲輪の周辺には土塁の跡も残っていました。

郭の内部には社もありました。



当時の城の守り神と思いましたが、
案内板によると安産の神様を祀っているようです。

この他、松平清康がこの山中城を急襲した際の
戦いで命を落とした将士の霊を慰める碑も
合わせて祀られているという事です。

この奥に主郭がありました。

主郭は二の郭よりも狭く、しかも
木々が生い茂りかなり狭く感じました。



主郭には城址碑とj縄張図がありました。
ところがこの縄張図は汚れていて
殆ど読み取れませんでした…

遺構の案内標識も整備してもらえたら、と思うのですが
この縄張図もなんとかして欲しいものです。

主郭の東側の虎口の様子です。



ここから主郭を抜け、東側の登城口に向かいました。
木々の間を抜けて行きます。

この辺りは郭かどうか、ちょっと自信が持てません。



散策路が右に下る左手の部分は曲輪と思います。



縄張図に示した曲輪Aでしょうか。
この下には馬出状の小さな曲輪もありました。



ここから更に下って行きます。



振り返ると曲輪の切岸と思える地形が見えています。
こちらは、虎口と思える様な地形です。



ここは縄張図で、曲輪Bとしたところだと思います。



山中城には散策路以外にも曲輪が点在しているようですが
是非、案内板を設置して欲しいものだと思います。



その下には横堀も認められました。



"わが街 岡崎"に戻る

"西三河の古城"に戻る

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る