大垣城
Ruins of Ohgaki Castle, Japan

登城日:
2012. 3. 19

【大垣城 概要】

大垣城は岐阜県の南西部に位置するお城です。
室町時代の中頃に築かれたようで、この地の代官職・
大垣氏が応仁年間に東大寺城として築城したようです。

その後、城主だった大垣氏の名前が城の名前となり、
天文4年と永禄2年に、宮川安定と氏家卜全が
城郭を築いたと伝わるそうです。

秀吉が天下を獲った後の1585年(天正13年)には
一柳直末に天守の造営を命じたそうですが、その直後の
1586年(天正13年)に起こった天正地震で大垣城は全壊して
しまいますが、1588年(天正16年)に天守が建てられたようです。

関ヶ原の戦いの前夜、石田三成率いる
西軍は大垣城を本陣として使われていました。
しかし、東軍が大垣城を迂回して関ヶ原に向かったため、
西軍も城を離れ、決戦の地・関ヶ原に向かったとされています。

関ヶ原の散策記はこちらです。

大垣城は、関ヶ原の戦いの前夜、石田三成ら西軍が
関ヶ原に移動した後、石田三成の義弟・福原長堯、
垣見一直、熊谷直盛らが大垣城に残りました。

9月15日、関ヶ原の戦い当日の未明に東軍に攻め込まれ、
攻防戦が9月23日まで続きましたが、西軍は敗れ開城しています。

江戸時代に入ると、石川康通が初代・大垣藩主となります。
1615年(慶長20年)には松平忠良が大垣藩主となりました。
いずれも徳川の有力な武将で、大垣城の重要性を伺わせます。

1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が大垣藩に移封となると、
以降、明治まで戸田氏が大垣藩主を続けました。


上は、江戸時代初期の大垣城の縄張り図です。
中心部に南北に並んだ本丸と二之丸を囲むように三之丸が
配され、更にその周囲を武家屋敷が取り囲んでいます。

2012年3月に、大垣城を訪れました。
その際の様子を紹介します。

また大垣城の門跡等は市街地にも点在しています。
そちらの様子は、大垣の散策記で紹介しています。

大垣の散策記はこちらです。

【大垣城へのアクセス】

JR大垣駅から南に向かって歩くと大垣城です。
徒歩約10分程です。

【大垣城登城記】

大垣駅から真っすぐ南に下り、堀跡だった水門川を
渡ると、大垣城の東門に辿り着きました。
当時は、今の大垣市役所に近い柳口御門の
建物を移築したものです。


撮影: 2012年3月

この門は大垣城本丸の東北に位置し、
この北に多門櫓と丑寅櫓が連なっていました。
下の写真は、その丑寅櫓を北から眺めた様子です。


撮影: 2012年03月

丑寅櫓は、第二次大戦で焼失し、
戦後に外観復元されています。

本丸の北の端を西に向かうと、水之手門がありました。
当時は、船で城内に入れたそうです。


撮影: 2012年03月

その脇には、戌亥櫓がありました。
大垣城本丸の西側には城西広場が広がっていて、
広場からは大垣城天守や本丸の櫓が一望出来ました。


撮影: 2012年03月

上の写真、中央やや右手には戸田氏鉄の騎馬像があります。
戸田氏鉄以降、明治まで大垣藩主となった戸田氏は
徳川の譜代大名です。

城西広場には、常葉神社があります。
この常葉神社は、戸田氏鉄、その父・一西や、
氏鉄以降の歴代の大垣藩主が祀られています。


撮影: 2012年03月

常葉神社は江戸時代末期の1825年(嘉永5年)に創建されています。
当時は。大垣城内にありましたが、明治になり大垣八幡神社に
移築され、その後、1891年(明治24年)の濃尾地震で
社殿が倒壊した為、現在地に再度移転しています。

常葉神社の奥には大垣大神宮もありました。
大垣大神宮は明治になって創建された神社です。


撮影: 2012年03月

この後、大垣城西門から本丸跡に入りました。


撮影: 2012年03月

趣のある城門ですが、1985年(昭和60年)の
整備の際に築かれた模擬門だそうです。

西門から本丸跡に入り、眺めた天守です。


撮影: 2012年03月

大垣城の天守は明治の廃城令による破壊を免れ、
昭和に入っても残り、国宝にも指定されていましたが、
第二次大戦の空襲で焼失してしまっています。

天守は、1959年(昭和34年)に外観復元されていますが、
窓が当時よりも大きく改変されているそうです。

天守西側の石垣の様子です。
石垣には高さ1m程の所に水の跡が残っています。

大垣では、1896年(明治29年)に2度の大水害に
見舞われていて、その際の水位を示しています。
この位置まで水に浸かったという事は、大垣の
市街地はほぼ全域が水没してしまったと思います。


撮影: 2012年03月

その近くには「おあむの松」がありました。
おあむは、関ヶ原の戦の際に籠城していた山田玄磨の娘です。
落城が近づいた際、東軍から「山田玄磨が、家康の手習の
師匠であった事から、玄磨の家族は助ける」との矢文が届きます。

このため、山田玄磨家族は、城の西側の松の
袂から盥に乗って大垣城を脱出したそうです。
その松が「おあむの松」と伝わっています。

その北側に戌亥櫓があります。
先ほど、城西広場から眺めた櫓の城内からの様子です。


撮影: 2012年03月

その右隣の水之手門です。
訪れた際は、工事中でした。


撮影: 2012年03月

本丸の東側に移動し、西日を浴びる天守を眺めました。


撮影: 2012年03月

この東側に、柳口御門を移築した東門があります。


撮影: 2012年03月

東門から天守に向かいました。
4重4層の天守の様子です。
空襲で焼けてしまった事が悔やまれます。


撮影: 2012年03月

大垣城の天守に登り、最上階からの眺めを楽しみました。
西側には遠く伊吹山が見えていました。


撮影: 2012年03月

下の写真は、北東を眺めた様子です。
残念ながら大垣城の天守よりも高い
建物も多く、展望は効きませんでした。


撮影: 2012年03月

天守に登った後、再び本丸西側の公園に向かいました。
当時は武家屋敷が並んでいたはずの所です。


撮影: 2012年03月

西日も傾いています。
公園の一角に濃飛護國神社がありました。


撮影: 2012年03月

1869年(明治2年)に旧藩主・戸田氏共が
戊辰戦争の犠牲者を弔ったのが始まりだそうです。

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