岡崎市の中央部のやや南、
JR岡崎駅の北から東に進み、
緩やかな丘陵を上りきったところに
小豆坂古戦場があります。
桶狭間の戦い以前の西三河は
東の今川氏、西の織田氏に挟まれ
とても不安定な状況だったようです。
家康の祖父にあたる松平氏7代の
松平清康は西三河を一旦平定するのですが、
1535年(天文4年)に家臣によって殺されてしまいます。
家康の父、松平広忠は今川氏に属する事を決め、
一方、織田信秀は、矢作川東部へ進出する機会を伺い、
1542年(天文11年)に、今川軍4万と織田軍4千とが
この地で戦ったと言われています。
JR岡崎駅から岡崎工業高校前の道を東に向かい
道なりに緩やかな坂を上っていきます。
この緩やかな坂道を上ったところが
岡崎環状線(県道26号線)との
交差点周辺が小豆坂古戦場です。
1542年の戦いでは織田方の7名が槍で奮戦し、
小豆坂の七本槍と言われているそうです。
交差点の角に今川氏と織田氏の
家紋の入った碑が建っています。
道路を隔てた反対側には
小豆坂古戦場の碑が立っていました。
今川義元と織田信秀は、1548年(天文17年)に
再びこの地で相まみれました。
この時の戦いでは、松平家家臣・酒井雅親らの活躍で
今川・松平の連合軍が勝利を得たそうです。
古戦場の碑の隣には血洗池や
槍立て松の史跡がありました。
これは槍立松です。
1542年(天文11年)の戦いで、織田方の七本槍を
この松に立て掛けたと伝えられているそうです。
その左手にあった、血洗池跡の碑です。
こんな丘陵地の頂上に池があったのかな?
と思ったのですが、槍立松やこの血洗池の碑は
近くの他の場所から移設されたそうです。
戦場は、この周囲一体に広がっていたようです。
この小豆坂では、今川と織田の戦いだけでなく、
桶狭間の戦い以降、岡崎城に入った家康が、
家康の家臣も加わった一向一揆衆との間に
1564年(永禄7年)に、戦いを行っています。
今では交通量の多い幹線道路脇にあり
ここで血なまぐさい戦いが行われたとは
想像に出来ません。
住宅やマンション等で視界も遮られていますが、
地形的にはこの小豆坂は周囲を
遠望できる要衝の地だったと思います。