北野廃寺は岡崎市の北西にあります。
岡崎市の中心部からは矢作川を渡り、
西側にある三菱自動車の工場の近くにあります。
7世紀後半の白鳳時代にこの地域の豪族の
私寺として造営されたものだそうです。
聖徳太子が建立した法隆寺が7世紀初めの創建で、
現存する一番古い建物が7世紀末から8世紀初めなので、
この北野廃寺は都から遠く離れていたものの、
ほぼ同じ時期に建立された古い歴史があることになります。
境内の広さは東西126m、南北146mもの広さで、
当時、この地域を治めていた豪族の
勢力の強さをうかがい知る事が出来ます。
北野廃寺は国指定の史跡として整備されています。
北野廃寺の史跡は住宅街の中にありました。
史跡指定範囲の東側の一部に住宅が建っていますが
およそ8割程の範囲が整備されていました。
史跡の南側から入っていくとまず中門跡がありました。
基壇の土が削られていて明確にはわかっていないものの
間口13m、奥行き9.4mの門だったと推定されているようです。
中門からは左右に回廊が伸びていました。
中門から、塔跡、金堂跡そして講堂跡が北の方角に
一直線状に並んでいるのが見えました。
この伽藍配置は、日本最古の寺院として知られる
大阪の四天王寺の伽藍配置と同じで、
四天王寺式と言われています。
中門の北にある塔跡です。
心柱の礎石は直径2.5mもの扁平な巨石で、
地下に据えられているそうです。
この礎石の柱座の径から塔の高さは
約33mと推定されているそうです。
法隆寺の五重塔が高さ31.5m、
薬師寺の東塔が34mなので
これらの大寺の塔とほぼ同じ大きさの
塔が建っていた事になります。
塔跡に隣接するように金堂跡があります。
間口14.9m、奥行12.4mの建物跡です。
その北側には講堂跡(下写真左)、
僧坊跡(写真右)と続いています。
講堂跡には礎石が残っています。
講堂は間口約27m、奥行13mです。
整然と礎石が並ぶ様子は、かつてここに
かなりの規模のお寺が実在していた事を
実感する事が出来ました。
僧坊の北側には幅1.8mの土塁跡が
所々残されていたようで、今は
その様子が復元されていました。
確か、中学生だった頃からこの
北野廃寺の存在を知っていましたが、
訪れたのはこの時(2008年1月)が初めてでした。
回廊跡から眺めた塔跡や
金堂跡の基壇の様子です。
これ程までの歴史と規模を誇る寺が
かつて岡崎にあった事を知り、
とても驚きました。
北野廃寺のすぐ東側を流れる矢作川。
岡崎の母なる川です。
これだけの規模のお寺を建てられた
白鳳時代の豪族も、この矢作川の恵みで
勢力を伸ばしたのでしょうか。