わが街 岡崎 / 大平界隈
Ohira Area in my Hometown Okazaki








大平は、岡崎市の中心部の東、
3km程のところにある集落です。

旧東海道の藤川宿と岡崎宿の
丁度真ん中あたりにあった集落です。



これは大平の古絵図です。
左が北になっていて、図の上の赤い線が東海道で、
図の真ん中よりもやや下にある筋は乙川と思われます。
絵図をよく見ると東海道に沿って民家が並んでいます。


旧東海道に沿って走る国道1号線が
大平の町を避けて通っているので、
集落はひっそりとした雰囲気です。



通りを歩く人を見ることもなく、
車の通りも少なくひっそりとしています。

その集落の中に一里塚が残っていました。



当時は街道の両脇にあった一里塚も
南側のみが残されています。

高さ2.4mの塚の上に榎の木が生えています。
江戸の日本橋から続く一里塚には
こうして榎が植えられていたようです。

一里塚近くの旧東海道には
常夜灯も残っていました。



江戸時代には街道を行く旅人が
一里塚で休んだり、常夜灯の灯りを
頼りに歩いていたことでしょう。

昭和も40年代頃にはこうした常夜灯も
あちこちで見かけたのですが、今では
見かけることも少なくなってきています。


この大平の集落から北に少し入ったところに
大岡裁きで知られる大岡越前守忠相(ただすけ)が
藩祖となった西大平藩の陣屋跡がありました。



大岡忠相は江戸の町奉行を務め、8代将軍・
徳川吉宗が進めた享保の改革を支えたそうです。
後には寺社奉行も務めた忠相の身分は旗本でしたが、
72歳の時に吉宗公の口添えもあり加増を受け、
1万石の大名となり西大平藩を開いたそうです。
1748年(寛延元年)の事でした。

大岡忠相の領地は各地に散在していましたが、
一番領地の多い三河にあり、江戸との連絡に
便利な東海道の街道筋に陣屋を置いたようです。



西大平藩陣屋跡の内部の様子です。
ここを訪れた際に、近所の
子供たちが遊んでいました。

大岡家は江戸に常駐する定府大名だったようで
この陣屋に詰めていたのは、手代や
足軽を含めても12名程だったようです。


西大平藩陣屋跡の前の道は、乙川に沿って
旧額田郡額田町を抜け、本宮山から
新城や長篠へと抜ける街道です。



大平の集落を抜けると、
田圃の広がるのどかな景色です。

こののどかな景色の中、
こんもりとした杜が見えてきました。



天照大神を祀った神明宮です。
成瀬国次という松平氏の家臣が
1574年に神領を寄進したそうです。



ひっそりとした社殿の奥に
「神明宮古墳」がありました。



神明宮古墳は6世紀後半に築かれた円墳です。
石室は全長11.6m、最大幅2.4m、高さ3mで
西三河地方最大の横穴式石室ということです。


神明宮古墳から、乙川を渡ったあたりの景色です。



大平を訪れた時は、日没も近い夕暮れ時で、
東の空には、満月が浮かんでいました。



大平の集落から乙川を渡った
蛍橋付近の光景です。

蛍橋はその名のとおり、
岡崎ゲンジボタルの発祥地です。



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