【岩国陣屋概要】
戦国時代末期に中国地方一帯を支配した毛利氏は
関ヶ原の戦いで、毛利輝元が西軍の大将となった為、
江戸時代には領地は周防・長門の二国となってしまいます。
毛利氏存続の為、家康に働きかけた毛利氏家臣の吉川広家も
禄を減らされ、14万石の米子城主から岩国3万石の領主となり、
1602年(慶長7年)に横山の麓に御土居と呼ばれる屋敷を築き、
1608年(慶長13年)には横山の山頂に岩国城を築きます。
岩国城は僅か 7年後の1615年(元和元年)に廃城となり、
その後岩国領の政庁は麓の御土居に置かれます。
吉川氏の治める岩国領は3万国の石高がありました。
長州藩の支藩として岩国藩が存在しても不思議では
ないのですが、長州藩は吉川氏は陪臣であるとし、
岩国藩の存在を認めず岩国も長州藩領としていました。
その一方で、幕府からは吉川氏は外様大名として
認められていたという複雑な関係が続いていました。
岩国領が正式な藩として認められたのは、
大政奉還後の1868年(慶応4年)3月の事でした。
1871年(明治4年)に廃藩置県となり岩国県が置かれると
吉川氏の屋敷跡には吉香神社が置かれ、御土居周辺の
武家屋敷跡は吉香公園として整備されました。
岩国城の最寄り駅はJR岩徳線の西岩国駅です。
西岩国から錦帯橋を通り、吉香公園まで
徒歩30分程です。
西岩国を通る錦川鉄道の乗車記はこちらです。
錦帯橋を渡り、岩国領の政庁のあった
御土居跡の吉香公園に向かいました。
吉香公園に入ると左手に吉川広嘉公の像がありました。
吉川広嘉公は、岩国の三代目の領主で、
錦帯橋を架けた人です。
吉香公園には、江戸時代の武家屋敷の跡が
いくつか残っています。
上左の写真は香川家長屋門、そして
上右は中級武士だった目加田家住宅です。
この北側に内堀がありました。
江戸時代、堀の向こう側は、領主・吉川氏の
屋敷と岩国領の政庁があった御土居でした。
江戸時代には南櫓が建っていた場所に、
錦雲閣が建っていました。
錦雲閣は、吉川氏の居館跡の一部が公園として
開放された1885年(明治18年)に建てられました。
堂々とした姿は当時の櫓のようでした。
この西側に、江戸時代に吉川氏の屋敷
だった場所に建つ吉香神社があります。
吉香神社は、岩国領主だった吉川氏一族を祀る神社です。
今の社殿は、1728年(享保13年)に白山神社に建てられ、
1885年(明治18年)に江戸時代の吉川家屋敷跡の
現在地に移されています。
これらの鳥居、神門、拝殿、本殿は
国の重要文化財に指定されています。
吉香神社の裏には褒忠社がありました。
岩国領主初代の吉川広家が、吉川家の先祖を祀る為に
建立した節臣廟を明治以降に神社としたものです。
木々の中で、落ち着いた佇まいでした。