名張陣屋
Nabari Jinya, Japan

登城日:
2011.8.18

【名張陣屋概要】

名張陣屋は、名張藤堂家の陣屋です。
名張藤堂家の歴史は、少々謂れがあります。

織田信長の家臣・丹羽長秀の三男・仙丸は、幼い頃、
秀吉の策略で、秀吉の弟・羽柴秀長の養子となります。

ゆくゆくは大納言秀長の跡継ぎになる筈でしたが、
秀吉が急に甥の羽柴秀保を跡継ぎにしたため、
仙丸の人生は大きく影響を受ける事になりました。

その後、秀長の家臣・藤堂高虎が仙丸を養子として
貰い受け、藤堂高吉となり、高虎の所領・今治
20万石のうち2万石を拝領していました。

今治城の登城記は こちら です。

高虎も高吉を跡継ぎにと考えていましたが、
その後、実子の高次が生まれ、藤堂高虎の死後、
高吉は、高次の家臣となり、藤堂家が津藩に移封され
今治に松平定房が赴くことになると藤堂高吉は
名張で1万5000石の所領を得ました。

一説によると藤堂高虎は死に際し、高吉に5万石を
与えると遺言したそうですが、高次がこれを無視し、
高吉を冷遇し続けた為、藤堂本家と名張藤堂家の
間では、緊張関係が続いたそうです。

上記の経緯から、名張藤堂家は徳川幕府の大名ではなく
津藩藤堂家の家臣でしたので、名張陣屋も
正式な陣屋ではなかった事と思います。

名張藤堂家は11代高節の代で、明治維新を迎えました。

【名張陣屋へのアクセス】

近鉄大阪線の名張駅から徒歩すぐです。

【名張陣屋訪問記】

2011年8月18日、宇陀松山を訪れた後、
近鉄で名張に移動し、名張陣屋を訪れました。


撮影: 2011年8月

名張駅から駅前の道を北西に向かいます。
商店が続いていますが、その南西側には
名張中学校があり、ここが名張陣屋跡です。


撮影: 2011年8月

通りから、名張中学校の校門へとスロープが続いています。
その脇からは、中学校の敷地の切岸が見えていました。
切岸は、優に民家の二階分の高さがありました。

駅前を通る道に戻り、次の信号の
ある交差点で左に折れました。


撮影: 2011年8月

緩やかな坂道になっています。

坂道の途中、左手には名張小学校があります。
この名張小学校も、名張陣屋の敷地跡です。


撮影: 2011年8月

名張小学校の正門を過ぎ、坂道を登った
右手に、古い屋敷門がありました。


撮影: 2011年8月

名張藤堂家の屋敷跡です。
今残る建物は1710年(宝永7年)の
名張大火の後に再建されたものです。

ここは公開されているのですが、
訪れた日はあいにく休館日でした。

名張藤堂家屋敷跡の北東側の小路の様子です。


撮影: 2011年8月

古い土塀と柳の木が風情ある
佇まいを醸し出していました。

こちらは敷地の南側の様子です。


撮影: 2011年8月

北側と異なり白壁が、凛とした
雰囲気を醸し出していました。

宝永年間に再建された屋敷は幾つもの建物があり、
全部で1,000畳を越える程の大きさだったそうです。

公務を行う建物は、取り壊されてしまいましたが、
現在は、領主のプライベートな空間である中奥を
中心としたごく一部が残っているようです。


撮影: 2011年8月

藤堂家屋敷跡の西側にある壽栄神社には
旧正門が移築されていました。


撮影: 2011年8月

壽栄神社から、藤堂家屋敷跡前の通りを越えて
名張小学校の敷地の南側に向かいました。

ここには土塁跡と思われる痕跡がありました。


撮影: 2011年8月

ここから名張小学校の敷地の南側に
沿って東に向かって歩きました。

人目に付かなさそうな場所ですが、
ここには当時の陣屋の入り口と
思われる石段が残っていました。


撮影: 2011年8月

その近くには無縁萬霊塔という碑がありました。
(上右の写真です。)

無縁萬霊塔は伊賀上野市の立正寺の住職が、
信長が伊賀に攻め込んだ、天正伊賀の乱での
犠牲者の霊を慰める為に建立したものです。

江戸時代に名張陣屋が建っていた
名張小学校の校庭です。


撮影: 2011年8月

この東側には名張中学校があり、
そこも陣屋の建物が建っていました。


撮影: 2011年8月

中学校の校庭の南側にも、当時の陣屋の
出入り口と思われる石段跡がありました。

名張中学校から南東に向かうと、
宇流冨志禰神社がありました。


撮影: 2011年8月

873年(貞観15年)の記録も残る古い歴史のある神社です。
しかし、伊賀天正の乱で大きな被害を受け、
神社の由緒も失われてしまったそうです。

江戸時代には名張藤堂家が神領を寄進しているようです。

宇流冨志禰神社から名張駅に向かう途中、
宝蔵寺がありました。


撮影: 2011年8月

宝蔵寺も天正伊賀の乱の被害を受け、
江戸時代に入って再興されたそうです。

名張陣屋の跡は、名張藤堂家の屋敷跡が今に伝えて
いますが、宇流冨志禰神社や宝蔵寺の佇まいも、
江戸時代の名残を今に伝えているようでした。