【名張陣屋概要】
名張陣屋は、名張藤堂家の陣屋です。
名張藤堂家の歴史は、少々謂れがあります。
織田信長の家臣・丹羽長秀の三男・仙丸は、幼い頃、
秀吉の策略で、秀吉の弟・羽柴秀長の養子となります。
ゆくゆくは大納言秀長の跡継ぎになる筈でしたが、
秀吉が急に甥の羽柴秀保を跡継ぎにしたため、
仙丸の人生は大きく影響を受ける事になりました。
その後、秀長の家臣・藤堂高虎が仙丸を養子として
貰い受け、藤堂高吉となり、高虎の所領・今治
20万石のうち2万石を拝領していました。
今治城の登城記は こちら です。
高虎も高吉を跡継ぎにと考えていましたが、
その後、実子の高次が生まれ、藤堂高虎の死後、
高吉は、高次の家臣となり、藤堂家が津藩に移封され
今治に松平定房が赴くことになると藤堂高吉は
名張で1万5000石の所領を得ました。
一説によると藤堂高虎は死に際し、高吉に5万石を
与えると遺言したそうですが、高次がこれを無視し、
高吉を冷遇し続けた為、藤堂本家と名張藤堂家の
間では、緊張関係が続いたそうです。
上記の経緯から、名張藤堂家は徳川幕府の大名ではなく
津藩藤堂家の家臣でしたので、名張陣屋も
正式な陣屋ではなかった事と思います。
名張藤堂家は11代高節の代で、明治維新を迎えました。
【名張陣屋へのアクセス】近鉄大阪線の名張駅から徒歩すぐです。
【名張陣屋訪問記】
2011年8月18日、宇陀松山を訪れた後、
近鉄で名張に移動し、名張陣屋を訪れました。
名張駅から駅前の道を北西に向かいます。
商店が続いていますが、その南西側には
名張中学校があり、ここが名張陣屋跡です。
通りから、名張中学校の校門へとスロープが続いています。
その脇からは、中学校の敷地の切岸が見えていました。
切岸は、優に民家の二階分の高さがありました。
駅前を通る道に戻り、次の信号の
ある交差点で左に折れました。
緩やかな坂道になっています。
坂道の途中、左手には名張小学校があります。
この名張小学校も、名張陣屋の敷地跡です。
名張小学校の正門を過ぎ、坂道を登った
右手に、古い屋敷門がありました。
名張藤堂家の屋敷跡です。
今残る建物は1710年(宝永7年)の
名張大火の後に再建されたものです。
ここは公開されているのですが、
訪れた日はあいにく休館日でした。
名張藤堂家屋敷跡の北東側の小路の様子です。
古い土塀と柳の木が風情ある
佇まいを醸し出していました。
こちらは敷地の南側の様子です。
北側と異なり白壁が、凛とした
雰囲気を醸し出していました。
宝永年間に再建された屋敷は幾つもの建物があり、
全部で1,000畳を越える程の大きさだったそうです。
公務を行う建物は、取り壊されてしまいましたが、
現在は、領主のプライベートな空間である中奥を
中心としたごく一部が残っているようです。
藤堂家屋敷跡の西側にある壽栄神社には
旧正門が移築されていました。
壽栄神社から、藤堂家屋敷跡前の通りを越えて
名張小学校の敷地の南側に向かいました。
ここには土塁跡と思われる痕跡がありました。
ここから名張小学校の敷地の南側に
沿って東に向かって歩きました。
人目に付かなさそうな場所ですが、
ここには当時の陣屋の入り口と
思われる石段が残っていました。
その近くには無縁萬霊塔という碑がありました。
(上右の写真です。)
無縁萬霊塔は伊賀上野市の立正寺の住職が、
信長が伊賀に攻め込んだ、天正伊賀の乱での
犠牲者の霊を慰める為に建立したものです。
江戸時代に名張陣屋が建っていた
名張小学校の校庭です。
この東側には名張中学校があり、
そこも陣屋の建物が建っていました。
中学校の校庭の南側にも、当時の陣屋の
出入り口と思われる石段跡がありました。
名張中学校から南東に向かうと、
宇流冨志禰神社がありました。
873年(貞観15年)の記録も残る古い歴史のある神社です。
しかし、伊賀天正の乱で大きな被害を受け、
神社の由緒も失われてしまったそうです。
江戸時代には名張藤堂家が神領を寄進しているようです。
宇流冨志禰神社から名張駅に向かう途中、
宝蔵寺がありました。
宝蔵寺も天正伊賀の乱の被害を受け、
江戸時代に入って再興されたそうです。
名張陣屋の跡は、名張藤堂家の屋敷跡が今に伝えて
いますが、宇流冨志禰神社や宝蔵寺の佇まいも、
江戸時代の名残を今に伝えているようでした。