【宇陀松山陣屋概要】
宇陀松山藩は、伊勢長島の領主だった福島高晴が、
関ヶ原の功績で1600年(慶長5年)に3万石で立藩しています。
福島高晴は、大坂の陣で裏切りがあったとの理由で改易され、
その後に織田信長の次男・信勝が藩主になっています。
宇陀松山陣屋は、大坂の陣の後の1615年
(元和元年)に、織田信勝が築いた陣屋です。
織田信勝は、春日神社の北側に御上屋敷を設けたそうです。
織田氏は、四代目・信武の際に藩に混乱が生じ、
五代目・信休の代の1695年(元禄8年)に
丹波柏原に移封されています。
宇陀松山陣屋跡は、近鉄大阪線の榛原駅から
大宇陀行の奈良交通バスで西山バス停下車。
所要時間15分、料金は440円です。
近鉄榛原駅から大宇陀行のバスに乗り、
大宇陀の集落の中心に近い西山で下車し、
東に向かい、宇陀川を渡ります。
橋を渡って左手に古い門が建っていました。
宇陀松山城西口門です。
案内版には江戸時代初期のものとあるので、
1600年(慶長5年)にこの地に移封された
福島高晴が築いたものでしょうか。
西口門は、現在高麗門のみ残っていますが、
門は桝形門型式になっているので、当時は
櫓門もあったのでしょうか。
また、福島高晴が改易された後、織田信勝が
宇陀松山藩の藩主となり、宇陀松山陣屋を
築きますが、その際も、この西口門は
陣屋門として機能していたと思われます。
西口門を抜けると、集落が広がっています。
当時は町人の暮らしていたようです。
大宇陀の町並みの様子は こちら です。
この集落を抜けて東に向かうと、東側の丘に
建つ天理教の教会への上り道がありました。
この天理教の教会が、宇陀松山陣屋の
上屋敷跡に建っています。
当時の遺構は破壊されていますが、立派な教会の建物が
殿さまの居た陣屋の建物ような威圧感を与えています。
上屋敷跡からは、大宇陀の街並みが一望に見えます。
織田信勝も、当時このように
領地を眺めていた事でしょう。
宇陀松山城西口門から上屋敷跡に向かう道の一本
南側の通りは、春日神社への参道になっています。
この通りが宇陀松山城への大手道にもなっていたようです。
集落が尽き、丘陵地に差し掛かったところで
春日神社への入り口となる石段がありました。
この石段が、春日門跡になります。
石段の両脇の石垣が当時の櫓台になります。
この春日門も、江戸時代初期の福島高晴の
時代に築かれたようですが、織田氏時代にも
引き続いて、存在していたようです。
春日門跡からしばらく坂道を上って行くと、
春日神社への入り口があります。
この手水舎の脇の石垣に、ポッかりと穴が開いています。
宇陀松山城からの抜け穴と言われています。
宇陀松山城の登城記は こちら です。
石段を上ったところの春日神社の様子です。
1405年(応永12年)に足利義満の
寄進によって創建されたそうです。
思わぬ立派な社殿でした。