宇陀松山城は南北朝時代の頃、秋山氏が
秋山氏が治める時代には、宇陀松山城は
1585年(天正13年)に、豊臣秀長が大和郡山に入ると、
1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いの後は、福島高晴が
その福島高晴は、2015年(元和元年)に、大坂の陣で
宇陀松山には、その後に織田信長の次男・信勝が
この宇陀松山城には、2011年8月に訪れました。
宇陀松山陣屋跡は、近鉄大阪線の榛原駅から
榛原駅からのバスを西山バス停で下車し、
案内版には江戸時代初期のものとあるので、
この宇陀松山城西口門から、春日神社の参道を
この石段が、春日門跡になります。
春日門跡から坂道を上り、春日神社の入り口の
この手水舎の脇の石垣に、穴が開いています。
その右手、春日神社の手前の石垣の
しばらく歩くと、急坂の登山道になりました。
この記事を書こうとして色々調べてみると
急な登城道を登っていくと、道の脇に
登城道の勾配は緩くなり、
登城道の左手に堀切もありました。
この堀切の反対側は、竪堀となって
春日神社から10分程上ると木々を抜け、
主郭部の虎口ですが、夏草に覆われて
虎口を抜けると本丸でしょうか。
右手の小高い部分は天守台と思います。
発掘調査が行われているのでしょうか、
本丸からは、南側の視界が開け、吉野や大峰山に
少々霞んでいましたが、素晴らしい景色に出会えました。
天守台の様子です。
天守台の周りにも石垣で囲われていました。
天守台にはいくつか碑が立っていました。
その下には、地名が記された石がありました。
天守台から眺める西側の様子です。
そして、拾生はこの下の谷にある集落です。
訪れた2011年は、夏だった事もあり、
しかし、この宇陀松山城はその後整備され、
Uda-Matsuyama Castle, Nara
登城日:
2011.8.18
築き、大宇陀の地を治めていました。
秋山城と呼ばれていたようです。
大宇陀の地も豊臣の家臣が治めるようになります。
この際に、宇陀松山城は、近世城郭に
大きく造り替えられているようです。
入城し、更に大規模な改修を行っています。
豊臣方に内通したとされ、改易されています。
その際、宇陀松山城も廃城になっています。
移封になりますが、信勝は大宇陀の集落近くに
宇陀松山陣屋を築いています。
大宇陀の町並みの様子は
こちら です。
大宇陀行の奈良交通バスで西山バス停下車。
所要時間15分、料金は440円です。
橋を渡って左手に古い門が建っていました。
宇陀松山城西口門です。
撮影: 2011年8月
1600年(慶長5年)にこの地に移封された
福島高晴が築いたものでしょうか。
東に向かうと集落が尽き、丘陵地に差し掛かった
ところで春日門跡の石段がありました。
撮影: 2011年8月
石段の両脇の石垣が当時の櫓台になります。
石段に差し掛かると、手水舎がありました。
宇陀松山城からの抜け穴と言われています。
撮影: 2011年8月
脇に狭い通路がありますが、ここが
宇陀松山城への入り口になります。
撮影: 2011年8月
案内版には秋山城と書かれています。
撮影: 2011年8月
宇陀松山城という表記で紹介するサイトが
多かったのですが、登城した2011年では
秋山城として紹介されていたケースが
多かったと思います。
土塁の様な土の高まりがありました。
撮影: 2011年8月
空堀の中を行く様になります。
(上右の写真)
撮影: 2011年8月
急斜面に続いていました。
山頂部の宇陀松山城の主郭部に到着しました。
撮影: 2011年8月
虎口の様子はわかり難くなっています。
夏草の下には石垣も一部残っていました。
思いがけず、広い空間が広がっていました。
撮影: 2011年8月
所々、ブルーシートで覆われていました。
撮影: 2011年8月
かけての紀伊半島の山々が見えています。
撮影: 2011年8月
時刻は午前11時、少々早いですが、この景色を
眺めながらおにぎりのお昼を摂りました。
撮影: 2011年8月
天守には、近年に建てられた建物の柱で
しょうか、何本も取り残されています。
撮影: 2011年8月
撮影: 2011年8月
拾生は、麓の大宇陀にある集落の名です。
撮影: 2011年8月
天守台の下は深く切れ込んでいますが、
その下に帯郭が南北に延びているようでした。
撮影: 2011年8月
草が生い茂り、当時の様子は殆ど
判りませんでした。
2017年には続日本100名城にも選ばれました。