福山城
Fukuyama Castle, Japan
登城日:
福山城は、豊臣家が滅びた元和元年に出された
安芸と備後を治めていた福島正則が改易されると、
福島正則時代の備後国の主城は
伏見城や神辺城の櫓や城門を移築する事によって、
豊臣家滅亡後にこれだけの規模のお城を建築したのは、
福山城は、JR福山駅の北側すぐに位置しています。
JR山陽線の上り普通電車で福山に到着すると
これは本丸の東南の角に建つ月見櫓です。
駅の北側、新幹線口から外に出ると、道路を挟んで
この石垣は二の丸の外側の石垣で、
その先にお城への入り口の階段があり、その石段を
この周囲に内堀や外堀が配置されていたのですが、
階段を上り、すぐに目に付くのが三重の伏見櫓です。
伏見城から移築された櫓が現存されていて
この伏見櫓の東側に本丸への正門となる
この筋鉄御門も伏見城の遺構と伝えられ、
門の扉に筋状に張られた鉄の帯が
400年以上前の門構えを見ていると
この門を抜けると、本丸の敷地が広がっています。
左手に向かうと鐘櫓がありました。
太鼓を鳴らして時を告げるお城も多い中
そして、筋鉄門から本丸に入り、
手前の建物が御湯殿、そして
御湯殿から更に東に向かうと、
先ほど駅のホームから眺めた櫓です。
そして、広々とした本丸御殿跡の先には
白塗りの天守の最上階には廻縁と赤い高欄が
伏見櫓、筋鉄御門は築城当時の現存のものですが、
御湯殿や天守は明治以降も残っていましたが、
堂々とした天守を見ると、中に入りたくなりますが、
天守の北側に向かう途中で、
福山城は、西国大名の抑える要として築城された
ところが、天守の北面に回ってみると
折角の外観復元であれば、特徴ある
鉄板張りを期待していただけに
天守閣の最上階の廻縁から
本丸御殿跡の向こうに新幹線の駅舎が
往時の城郭のごく一部しか残っていない
本丸東に残る鏡櫓の脇の東御門跡から
本丸の東に建つ鏡櫓です。
本丸の石垣は高さ10m程でしょうか。
下から見ると湯殿は懸造りに
この先には、筋鉄御門の櫓門が見えていました。
筋鉄御門の下を抜け、二の丸の南西隅に
ここは当時、三の丸への出入り口であった
西坂口門跡を抜け、三の丸跡から
当時、三の丸も二の丸を取り囲むように
その三の丸には県立の歴史博物館がありました。
福山城主となった水野氏は五代で絶え、
水野氏以降の城主もいずれも譜代の出身で、
阿部氏7代の正弘はペリー来航時の筆頭老中でした。
一国一城令の後に築かれた大城郭を持つお城です。
広島城のある安芸の国は浅野長晟(ながあきら)が任命され、
備後の国は、大和郡山城から家康の従兄弟にあたる
藩主として転封されてきました。
大和郡山城の様子はこちらです。
瀬戸内海沿岸から中国山地の中に入り
旧山陽道の通る神辺にあったのですが、
江戸時代に入り、流通が瀬戸内沿岸に移っていた事もあり、
この福山の地に新たにお城が築かれたようです。
工事期間僅か1年半で、五重天守、7基の三重櫓、
16基の二重櫓、櫓門10基を有する
大城郭を完成さています。
1622年(元和8年)の事です。
広島の浅野家、長門の毛利家、筑前の黒田家、
そして薩摩の島津家等々、有力な西国の外様大名を
譜代大名によって抑える要のお城としての役割を、
姫路城と共に期待されての事のように思います。
福山城二の丸からの福山駅を眺めた様子です。
撮影: 2010年12月
【福山城登城記】
福山城がすぐ近くに見えています。
撮影: 2006年12月
長い新幹線の駅舎に沿って石垣が屏風の様に続いています。
撮影: 2010年12月
福山駅との間の道路は当時は堀だったところです。
登ったところに城内の案内図がありました。
福山城の本丸とその本丸より一段低く周囲を
取り巻いている二の丸が図示されています。
南側の内堀や三の丸は鉄道の開通で破壊され、
その他の城郭も市街化によって消滅してしまっています。
撮影: 2010年12月
2階櫓の上に三重目を載せた望楼形の櫓です。
筋鉄御門への坂道が続いていました。
撮影: 2010年12月
この門も当時からの現存のものです。
厳つい門構えの雰囲気を作り出しています。
撮影: 2010年12月
威圧されるような感じがしてきます。
撮影: 2010年12月
撮影: 2010年12月
この福山城ではこの櫓に吊るされた鐘で
城下にを告げていたようです。
真っ直ぐ進んでいくと御湯殿があります。
撮影: 2006年12月
奥に見えるのが筋鉄御門です。
本丸の東南の角に月見櫓があります。
撮影: 2006年12月
二重の櫓ですが、赤い高欄が目に付く櫓です。
5重の天守が建っています。
撮影: 2010年12月
いいアクセントとなって華麗な姿になっています。
鐘櫓、御湯殿、月見櫓や天守は復元されたものです。
1945年(昭和20年)8月8日、終戦間際の
空襲で焼失してしまった事が惜しまれます。
これからの建物は1966年(昭和41年)に
復元されています。
その前に、天守の北面を見てみたくて、
裏側にまわる事にしました。
撮影: 2006年12月
名残の紅葉を見ることが出来ました。
筈なのですが、その掘割の北側は防御が甘く、
その為、北面が総鉄板張だったそうです。
残念な事に正面と同じ白壁の天守の姿でした。
撮影: 2010年12月
鉄板張りを再現して欲しかったものです。
少々ガッカリしながら天守に上ってみました。
撮影: 2006年12月
眺める福山城本丸跡の様子です。
手に取るように眺める事が出来ました。
福山城ですが、現存や復元された建物もあり、
当時の様子を残していました。
帯曲輪のように本丸の周囲を巡っている
二の丸に降りてみました。
撮影: 2010年12月
東御門を抜けて二の丸に下りました。
撮影: 2010年12月
鏡櫓の下を抜け、東南隅の月見櫓から
本丸南の湯殿の下を歩きました。
撮影: 2010年12月
なっているのがよく判ります。
撮影: 2010年12月
向かうと石垣で囲われた虎口がありました。
撮影: 2010年12月
西坂口門があったようです。
眺める二の丸の石垣です。
撮影: 2010年12月
配置された輪郭式の縄張だったようですが、
西側の三の丸には中屋敷が置かれていたようです。
撮影: 2010年12月
松平氏が一代、城主となった後は
阿部氏が福山城の城主となっています。
阿部氏からは老中が4名も選ばれており、
このことからも福山城主が幕政の中心としても
重く用いられていた事が分かります。