福山城

Fukuyama Castle, Japan

登城日: 2006. 12. 09 & 2010.12.20

【福山城 概要】

福山城は、豊臣家が滅びた元和元年に出された
一国一城令の後に築かれた大城郭を持つお城です。

安芸と備後を治めていた福島正則が改易されると、
広島城のある安芸の国は浅野長晟(ながあきら)が任命され、
備後の国は、大和郡山城から家康の従兄弟にあたる
藩主として転封されてきました。

広島城の様子はこちらです。
大和郡山城の様子はこちらです。

福島正則時代の備後国の主城は
瀬戸内海沿岸から中国山地の中に入り
旧山陽道の通る神辺にあったのですが、
江戸時代に入り、流通が瀬戸内沿岸に移っていた事もあり、
この福山の地に新たにお城が築かれたようです。

伏見城や神辺城の櫓や城門を移築する事によって、
工事期間僅か1年半で、五重天守、7基の三重櫓、
16基の二重櫓、櫓門10基を有する
大城郭を完成さています。
1622年(元和8年)の事です。

豊臣家滅亡後にこれだけの規模のお城を建築したのは、
広島の浅野家、長門の毛利家、筑前の黒田家、
そして薩摩の島津家等々、有力な西国の外様大名を
譜代大名によって抑える要のお城としての役割を、
姫路城と共に期待されての事のように思います。

【福山城へのアクセス】

福山城は、JR福山駅の北側すぐに位置しています。
福山城二の丸からの福山駅を眺めた様子です。


撮影: 2010年12月

【福山城登城記】

JR山陽線の上り普通電車で福山に到着すると
福山城がすぐ近くに見えています。


撮影: 2006年12月

これは本丸の東南の角に建つ月見櫓です。

駅の北側、新幹線口から外に出ると、道路を挟んで
長い新幹線の駅舎に沿って石垣が屏風の様に続いています。


撮影: 2010年12月

この石垣は二の丸の外側の石垣で、
福山駅との間の道路は当時は堀だったところです。

その先にお城への入り口の階段があり、その石段を
登ったところに城内の案内図がありました。


福山城の本丸とその本丸より一段低く周囲を
取り巻いている二の丸が図示されています。

この周囲に内堀や外堀が配置されていたのですが、
南側の内堀や三の丸は鉄道の開通で破壊され、
その他の城郭も市街化によって消滅してしまっています。

階段を上り、すぐに目に付くのが三重の伏見櫓です。


撮影: 2010年12月

伏見城から移築された櫓が現存されていて
2階櫓の上に三重目を載せた望楼形の櫓です。

この伏見櫓の東側に本丸への正門となる
筋鉄御門への坂道が続いていました。


撮影: 2010年12月

この筋鉄御門も伏見城の遺構と伝えられ、
この門も当時からの現存のものです。

門の扉に筋状に張られた鉄の帯が
厳つい門構えの雰囲気を作り出しています。


撮影: 2010年12月

400年以上前の門構えを見ていると
威圧されるような感じがしてきます。

この門を抜けると、本丸の敷地が広がっています。


撮影: 2010年12月

左手に向かうと鐘櫓がありました。


撮影: 2010年12月

太鼓を鳴らして時を告げるお城も多い中
この福山城ではこの櫓に吊るされた鐘で
城下にを告げていたようです。

そして、筋鉄門から本丸に入り、
真っ直ぐ進んでいくと御湯殿があります。


撮影: 2006年12月

手前の建物が御湯殿、そして
奥に見えるのが筋鉄御門です。

御湯殿から更に東に向かうと、
本丸の東南の角に月見櫓があります。


撮影: 2006年12月

先ほど駅のホームから眺めた櫓です。
二重の櫓ですが、赤い高欄が目に付く櫓です。

そして、広々とした本丸御殿跡の先には
5重の天守が建っています。


撮影: 2010年12月

白塗りの天守の最上階には廻縁と赤い高欄が
いいアクセントとなって華麗な姿になっています。

伏見櫓、筋鉄御門は築城当時の現存のものですが、
鐘櫓、御湯殿、月見櫓や天守は復元されたものです。

御湯殿や天守は明治以降も残っていましたが、
1945年(昭和20年)8月8日、終戦間際の
空襲で焼失してしまった事が惜しまれます。
これからの建物は1966年(昭和41年)に
復元されています。

堂々とした天守を見ると、中に入りたくなりますが、
その前に、天守の北面を見てみたくて、
裏側にまわる事にしました。


撮影: 2006年12月

天守の北側に向かう途中で、
名残の紅葉を見ることが出来ました。

福山城は、西国大名の抑える要として築城された
筈なのですが、その掘割の北側は防御が甘く、
その為、北面が総鉄板張だったそうです。

ところが、天守の北面に回ってみると
残念な事に正面と同じ白壁の天守の姿でした。


撮影: 2010年12月

折角の外観復元であれば、特徴ある
鉄板張りを再現して欲しかったものです。

鉄板張りを期待していただけに
少々ガッカリしながら天守に上ってみました。


撮影: 2006年12月

天守閣の最上階の廻縁から
眺める福山城本丸跡の様子です。

本丸御殿跡の向こうに新幹線の駅舎が
手に取るように眺める事が出来ました。

往時の城郭のごく一部しか残っていない
福山城ですが、現存や復元された建物もあり、
当時の様子を残していました。

本丸東に残る鏡櫓の脇の東御門跡から
帯曲輪のように本丸の周囲を巡っている
二の丸に降りてみました。


撮影: 2010年12月

本丸の東に建つ鏡櫓です。
東御門を抜けて二の丸に下りました。


撮影: 2010年12月

本丸の石垣は高さ10m程でしょうか。
鏡櫓の下を抜け、東南隅の月見櫓から
本丸南の湯殿の下を歩きました。


撮影: 2010年12月

下から見ると湯殿は懸造りに
なっているのがよく判ります。

この先には、筋鉄御門の櫓門が見えていました。


撮影: 2010年12月

筋鉄御門の下を抜け、二の丸の南西隅に
向かうと石垣で囲われた虎口がありました。


撮影: 2010年12月

ここは当時、三の丸への出入り口であった
西坂口門があったようです。

西坂口門跡を抜け、三の丸跡から
眺める二の丸の石垣です。


撮影: 2010年12月

当時、三の丸も二の丸を取り囲むように
配置された輪郭式の縄張だったようですが、
西側の三の丸には中屋敷が置かれていたようです。


撮影: 2010年12月

その三の丸には県立の歴史博物館がありました。

福山城主となった水野氏は五代で絶え、
松平氏が一代、城主となった後は
阿部氏が福山城の城主となっています。

水野氏以降の城主もいずれも譜代の出身で、
阿部氏からは老中が4名も選ばれており、
このことからも福山城主が幕政の中心としても
重く用いられていた事が分かります。

阿部氏7代の正弘はペリー来航時の筆頭老中でした。

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