七尾城は、石見西部を拠点に活躍した
七尾城は、南北朝時代には既に築城されいたようで、
七尾城は、JR山陰本線の益田駅から東に向かった
山頂部の二つの尾根に主要な郭が配置され、
戦国時代末期には、毛利氏の攻撃に備え
その後、益田氏は毛利氏の配下になったようで、
この七尾城には2011年7月30日に登城しています。
七尾城へは、JR山陰本線の益田駅から、
七尾城の移築門のある医光寺から
住宅地に住吉神社の鳥居がありました。
背後の山が七尾山でこの頂に七尾城があります。
この池は、以前の益田川の流れの跡で、当時は
七尾山の麓にも鳥居と社がありました。
この先に長い石段が続いています。
階段を上ったところの住吉神社の神門です。
七尾城へは、住吉神社から更に七尾山に登ります。
七尾城は、七尾山の南北に走る二つの尾根に曲輪が
辿り着いた曲輪を左手に進めば千畳敷へ、
この先には厩の壇がありました。
厩の壇から千畳敷の方を眺めた様子です。
後ろ髪をひかれる思いで、本丸を目指しました。
大手の帯曲輪は、南北に走る二つの曲輪群が
大手の帯曲輪には、長辺22m×短辺5mの大型建造物が
大手の帯曲輪から坂道を登って二の段に着きました。
ここは、本丸から艮の出丸へと続く東尾根曲輪群の曲輪です。
七尾城で唯一の空堀との事ですが、藪が深く生い茂り
そして、最後に辿り着いた本丸です。
本丸の南と北の端には大型の建造物が建っていたようです。
この七尾城の登城では、時間の余裕がなく登り始めてから
七尾城の大手門は、北に600m程の所にある
Nanao Castle (Masuda Castle), Japan
登城日:
2011.7.30
益田氏が居城としたお城です。
1336年(延元元年)に南朝方の三隅軍が攻め寄せた
という記録が益田家の文章に残っているそうです。
益田川沿いの七尾山の山頂部に築かれています。
郭の数は全部で40以上も確認されています。
大規模な改修が行われたそうです。
関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長ニ州に移封と
なると、七尾城も廃城になったようです。
東に歩いて徒歩約30分程です。
南に向かい七尾城を目指しました。
益田の散策記はこちらです。
七尾城へは住吉神社を通って行くことが出来ます。
参道を進むと、七尾城の麓に三日月型の池がありました。
七尾城の堀の役割を果たしていたように思います。
この石段は住吉神社への参道ですが、
七尾城への登城道にもなっています。
益田の街並みも見渡す事が出来ました。
住吉神社から数分、山道を登ると、
七尾城の曲輪に辿り着きました。
連なって配置されていますが、辿り着いたのは尾崎丸
から千畳敷を経て厩の壇へと至る西尾根曲輪群です。
右に進むと厩の壇を経て本丸へと続きます。
この日は時間がなく、本丸への道を進みました。
馬で登城した家臣たちがここに馬を
繋ぎ本丸へと向かったそうです。
この先にあった大手の帯曲輪です。
一つに合わさる要の位置にある曲輪です。
建っていた事が、発掘調査で明らかになったそうです。
二の段の南側、本丸との間には空堀がありました。
その実態はよく分かりませんでした。
城主だった益田氏は1583年(天正11年)に麓の三宅御土居に
居を移したと文書に残っているそうで、それまでは
この本丸が城主の居住地だったと思います。
下城するまで、およそ45分程で登城を終えました。
訪れなかった曲輪も多く、少々心残りです。
医光寺に移築されています。