三宅御土居は、益田市の中心部から1km程東の
益田氏は石見守として京から赴任した藤原国兼が
四代・兼高が益田に移り益田氏を名乗っています。
三宅御土居は敷地の東西に土塁があり、
発掘調査の結果では、12世紀から16世紀にかけて
12世紀から13世紀にかけてと、15世紀、そして
三宅御土居に居館を構え、南東の七尾城(益田)が
16世紀の建物は、この時のものでしょうか。
この三宅御土居には2011年7月30日に登城しています。
三宅御土居へは、JR山陰本線の益田駅から、
益田氏の居城だった七尾城に登城した後、
この三宅御土居跡は1990年(平成2年)から2000年
この左手に立派な土塁がありました。
高さ5m、長さ87mの大規模な土塁です。
屋敷を囲う土塁として、この規模というのは
三宅御土居の七尾城通との北側の交差点の様子です。
東西の道を西に向かい、三宅御土居跡に向かいました。
三宅御土居跡には発掘調査前にはお寺や住宅が
そして、こちらが西側の土塁です。
この西土塁のすぐ裏側に小路が通っていました。
街中の土塁は、宅地開発などで壊された例が多く、
そして、西土塁の前から眺めた三宅御土居の様子です。
この三宅御土居を訪れた際、益田駅からの列車の時刻が
電話したタクシーがすぐに来てくれて助かりました。
Miyake-Odoi, Japan
登城日:
2011.7.30
益田川の畔にある、中世から戦国時代に
かけての益田氏の居館だったところです。
任期を終えても石見に留まり続け、土着豪族した
一族と言われているようです。
南北を川と堀を配した構造になっています。
東西190m、南北110mもの広さがありました。
掘立柱の建物が繰り返し建てられていたようです。
16世紀と大きく3つの年代に分かれているそうです。
詰めの城にあたりますが、七尾城に登城した際に、
益田氏は1583年(天正11年)に麓の三宅御土居に
居を移したと案内版にありました。
東に歩いて徒歩約30分程です。
北西に向かう七尾城通を歩き、益田川を渡ると
井戸跡と掘立柱建物の平面復元が整備されていました。
(平成12年)にかけて発掘調査が行われていました。
案内版には「一乗谷朝倉氏遺跡の上・下城戸と共に
全国的にも他に類を見ない大規模な土塁」とありましたが、
一乗谷の土塁は、谷あいの集落そのものを守る為の土塁ですが、
この三宅御土居は、屋敷を囲うもので、その性格は異なっています。
一層、堅い守りをしていたという事になります。
この東西に走る生活道路はかつて堀だったところです。
下左が北から南東を、下右が西を眺めた様子です。
建っていたようで、立ち退いた跡が残っています。
高さ4.5m、長さ52mの大規模なものです。
この立派な土塁が今に残されているのは
奇跡に近い事と思います。
発掘調査の名残なのか、ブルーシートで
覆われている個所もありました。
迫っていて、時間の余裕もあまりなかったのですが、
規模の大きな土塁に見惚れ、散策に時間を掛け過ぎて、
列車に乗り遅れそうになったので、急遽タクシーを
呼んで駅に向かいました。