朝倉氏館
Asakurashi Kan, Japan


登城日:
2010. 7. 11









【朝倉氏館 概要】


朝倉氏館は、1471年(文明3年)から1573年(天正元年)までの
103年の間、戦国大名・朝倉氏が拠点としたところです。

朝倉氏は一乗谷川の流れる狭い谷の2箇所に城戸と呼ばれる
土塁を築き防御を固め、その間に館や家臣団の屋敷や
町屋などを配した一大城下町になっています。





2箇所の城戸の距離は1.7kmもあり、
その規模の大きさが判ります。

館を見下ろす山には要害の城を築いています。



↑ クリックすると大きい画像でご覧頂けます。



最盛期には人口も1万人を超え、
越前の中心地として栄えたそうです。


この一乗谷を拠点に勢力を伸ばした朝倉氏ですが
信長に敵対し、ついにはその軍事力の前に敗れ去り
1573年に、朝倉氏103年の歴史を閉じています。

その後、朝倉旧臣の桂田長俊が守護代となり、一乗谷に
館を構えますが、1575年(天正3年)に一揆に遭います。

この後、この地を治めた柴田勝家は北ノ庄を拠点とした為、
一乗谷は歴史の舞台から消えてしまいました。

北ノ庄城の登城記はこちらです。


2010年7月11日、この朝倉氏館を訪れました。
その時の様子を紹介します。



【朝倉氏館へのアクセス】


JR越美北線一乗谷駅から武家屋敷まで徒歩約25分。
福井 - 一乗谷間は一日9往復。
運賃は240円です。




JR一乗谷駅ホームの様子です.

JR越美北線の乗車記はこちらです。


または福井駅から京福バス東郷線バスで、
朝倉館前、武家屋敷前または一乗小学校前下車。
一日6往復。
運賃は福井駅前 - 一乗小学校間で690円です。



浄教寺行バス 福井駅にて
路線番号は62です。



京福バス東郷線の時刻表はこちらです。





【朝倉氏館登城記】



御所・安養寺跡
Sep. 10, '15

上城戸
Sep. 13, '15

諏訪館跡庭園
Sep. 16, '15

英林塚から中の御殿跡
Sep. 19, '15

湯殿跡庭園
Sep. 26, '15

朝倉義景館跡
Oct. 06, '15

復原町並
Oct. 10, '15

南陽寺跡
Oct. 13, '15

雲正寺地区
Oct. 15, '15

赤渕・奥間野地区
Oct. 21, '15

朝倉景鏡館跡
Oct. 29, '15

下城戸
Nov. 01, '15

西山光照寺跡
NEW! Nov. 03, '15




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御所・安養寺跡







2010年7月11日、福井駅からバスに乗って
一乗谷の朝倉氏館を目指しました。

南北に連なる一乗谷を抜け、南の外れの
一乗小学校前でバスを降りました。



一乗谷には下城戸と上城戸という二箇所の
城門で城下町を護っていますが、
ここはその外側に当たります。

一乗小学校から東側の丘陵地に向かっていくと
そこは御所と呼ばれる場所です。

1567年(永禄10年)に、朝倉義景を頼り、
一乗谷に来た足利義昭がここに
滞在していたそうです。


丘陵の端に、階段状の地形がありました。



ここが御所です。
階段を上り、この奥に入って行きます。



御所の奥には屋敷が並んでいたようです。
今は、丘陵地に埋もれてしまっているようでした。



足利義昭は上洛を目指しながらなかなか
果たせず、9か月に亘ってここに滞在しました。
その後、明智光秀の仲介で織田信長を頼り
室町幕府の第15第将軍に就任します。

正直なところ、次期将軍の可能性のある義昭を
城外のこの地に住まわせたというのは
少々意外でした。


御所の南側には芝生の平地が広がっています。



こちらは安養寺跡です。
安養寺は、朝倉氏初代の孝景が建立した寺院です。
現在は福井市の市内に移されているそうです。

この安養寺跡は1996年(平成8年)に
発掘調査が行われています。



その調査結果に基づいて溝跡や
建物跡、柵跡などが整備されています。



門跡の脇に続く、立派な溝跡が
復元されていました。



安養寺跡の入り口から御所の
方角を眺めた様子です。



ここから御所の前を通り、
上城戸に向かいました。



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上城戸







御殿から北に向かって歩いていきます。



その先に大きな土塁が見えてきました。

この土塁が上城戸で、一乗谷にある
朝倉氏館の追手門にあたります。



上城戸の土塁の高さは5m、
長さは105mもあるそうです。

上城戸の上に上がる事が出来ました。
上城戸の北に広がる一乗谷の様子です。



上城戸の手前には、区画された敷地が続いています。

一乗谷の史跡化で立ち退いた家の跡かと思っていたのですが、
案内板を読むと「発掘によってこの上城戸のすぐ近くまで
町屋や道路跡が見つかった」とありました。

この区画は、当時の町屋の跡を示しているものでしょうか。

その向こうには、一乗谷が広がっているのが見えました。
朝降っていた雨もようやく上がったのですが
一乗谷が靄に霞んでいるようでした。

こちらは、上城戸の南側の眺めです。



バスを降りた一乗小学校の校舎が目立っています。


上城戸の土塁から下り、北側の一乗谷の
中心部へと向かって歩いて行きました。



上城戸の土塁の上から眺めた町屋の跡の
礎石類が地面に浮き上がっていました。

1970年(昭和45年)に、この辺りで土地改良事業が
行われた際に大量の遺物が出土し、それが
一乗谷の遺跡保存につながったそうです。

この先に、綺麗に芝生が敷かれた一角がありました。



2009年(平成21年)に全国植樹祭が
行われた会場との事です。

天皇陛下お手植えの淡墨桜もありました。




生徒らの 心を込めて 作りたる
鍬を手に持ち 苗植えにけり


註: "え"は古字です

天皇陛下の詠まれた詩です。

この後、諏訪館跡庭園を目指しました。



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諏訪館跡庭園







2009年(平成21年)に行われた全国植樹祭の会場を
過ぎると諏訪館橋が一乗谷川に架かっていました。



諏訪館橋から眺める一乗谷川の上流です。
遠くに上城戸が見えています。



この諏訪館橋を過ぎると階段状に
整地された丘陵地がありました。
この脇に階段があります。



この階段を上ると諏訪館跡に辿り着きました。



この諏訪館は朝倉義景の夫人・
小少将の屋敷跡との事です。


この諏訪館には廻遊式林泉庭園があります。



庭園は2段になっています。
石の配置は古式に則っているとの事で
専門の庭師が作庭したと推定されているようです。

これは下の段の庭園です。



上下の庭園に段差があり、この石の脇で
水が滝のように流れる配置になっています。

大きな木の脇に大きな石が立っています。
これは滝添石と呼ばれ高さが4.1mもあるそうです。

1847年(弘化4年)、滅亡した朝倉氏を供養する為、
朝倉教景、貞景、考景の法名を刻んでいるそうです。

上の段から下の段の庭園を眺めた様子です。



こちらは上の段です。



滝へと水を導くように優雅な
水の流れが造られていました。


下の段の脇にあった「諏訪舘址」の碑です。



諏訪館は立派な切岸で固められています。



古城の曲輪という雰囲気でした。



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英林塚から中の御殿跡







諏訪館跡の散策を終え、
その北側から敷地の外に出ました。

向かいは中の御殿跡ですが、英林塚という
案内板があったので、そちらに向かいました。



諏訪館跡と中の御殿跡の間の通路の様子です。
英林塚へ向かう途中、道の脇には
石垣も見えていました。



この辺りは朝倉氏館の中枢部に近く
いくつもの屋敷が建てられ、それらの屋敷は
しっかり護りを固めていた事と思います。


坂道を歩いていくと、木立の間を行くようになり
山間へと分け入っていくようになりました。



この先の木立の中に
コンクリート製の建物がありました。



この建物の中に五輪の塔があります。
これが英林塚です。



この五輪の塔が朝倉氏七代目当主・朝倉孝景公のお墓です。
英林塚は朝倉孝景の法名、英林孝景から付いたと思います。

朝倉孝景は,主君の越後守護・斯波氏に仕えていましたが
応仁の乱の際に実力で越前一国を手中に収め、
実力で越前守護職に就いた人です。

一乗谷に移り住んだ最初の朝倉氏当主と言われており、
英林塚にも"初代・孝景公"と書かれた碑もありましたが
孝景公以前からこの一乗谷に居を構えていたようです。


英林塚は一乗谷を囲む山の麓にあります。
裏側には詰城の一乗谷城の登城口も続いていました。



一乗谷城も行きたかったのですが、
朝まで降っていた雨で道もぬかるんでいるし
何より登城口で通行止めになっていました。

熊注意の表示もあって一乗谷城への
登城は注意が必要なようです。


英林塚から中の御殿跡の入り口まで戻りました。
道の途中にあった石垣の様子です。



中の御殿跡を見下ろす事が出来ました。



中の御殿は朝倉義景公の実母・光徳院の屋敷跡でした。
現地の案内板にもありましたが、ここは朝倉義景の
屋敷跡に近く、周囲には親族が暮らしていた事と思います。

中の御殿の入口の南門です。


中の御殿には4棟の建物が建っていました。
下左の写真の右側に主屋、そして
正面に日常用の建物がありました。



右の写真は御殿の南東にあった庭園跡です。
御殿の東側は2重に土塁が築かれていました。

中の御殿からは諏訪御殿の
切岸がよく見えていました。



西側は一段低い一乗川の谷に広がる
街並み復元地区も見えていました。



中の御殿の東側から北側にかけては
立派な空堀も巡らされていました。



空堀の対岸は湯殿跡になっていて
その石垣も見えていました。



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湯殿跡庭園







中の御殿跡の隣には湯殿跡庭園があります。
朝倉義景館跡に隣接し、一段高い位置にあります。



湯殿跡庭園は朝倉氏十代の
朝倉孝景公の屋敷跡だったようですが
文書ではその存在が記されたものはないそうです。

朝倉氏館にある4箇所の庭園の一つで、
4つ中では最も古いものと言われています。



湯殿跡に入ると石組の庭園跡が広がっていました。



この石は、護岸石組や滝石組、滝副石などがあるようで
往時は池に水が湛えられていたと考えられています。


湯殿跡の庭園は、屋敷跡の
南の端に位置していました。



湯殿跡の案内板の様子です。



湯殿跡の北側からは朝倉義景館跡を
見下ろす事が出来ました。



一段と広い敷地に建物の礎石が遺されており
早くそこに向かいたい衝動に駆られます。



朝倉義景の館跡を囲む立派な土塁も
手に取るように見えていました。


これからいよいよ一乗谷朝倉氏館の中心、
朝倉義景公館跡に向かいます。






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朝倉義景館跡







高い位置にある湯殿跡庭園から
眼下に広がる朝倉義景邸跡を眺めた後、
いよいよ一乗谷史跡最大の見所に向かいました。



朝倉義景舘跡は朝倉氏11代で、
かつ最後の当主・義景の館跡です。

館跡にならぶ礎石が示す様に、整然と建物が建ち並び、
戦国時代の武士の館というよりも優雅な貴族の
御殿の様な雰囲気が漂います。

湯殿跡庭園から下りた石段の様子です。



この館跡の一角に朝倉義景のお墓があったので
まずそこに行っていました。



1573年(天正元年)、義景は信長軍の侵攻を受けると
一乗谷を棄てて大野に逃げ、最期は朝倉景鏡の
裏切りに遭い大野の六坊賢松寺で自刃したそうです。

この一乗谷に義景のお墓があるのはどうしてか、
と思っていましたが、福井市のホームページに、
1576年(天正4年)に村人が祠を建て、1663年(寛文3年)に
福井藩主・松平光通公がこの墓塔を立てたと記されていました。

義景のお墓の近くには、他にも石仏がありました。



朝倉氏が滅んだ後、義景の館跡には
菩提寺だった心月寺が置かれていたそうです。

心月寺はその後北ノ庄に移りますが、
この館跡のお寺とお墓はその別院として
松雲院」という名でこの地に残りました。


義景のお墓の前には、館跡が広がっていました。



発掘調査に基づいて礎石が建物跡に置かれてます。


朝倉義景の館跡は東側の山を背景とし、
西側に開かれています。

南側から、西側そして北側に向かってコの字型に
堀が巡らされ、その内側には土塁が築かれていました。

土塁の内側の広さは6,425uにも及び、
建物の数は十数棟もあったそうです。



西側の建物は遠侍や主殿、会所など家臣などとの
面会に用いられた"表"用の建物があります。

その東側、建物群のほぼ中央を占める常御殿があり
その更に東側は台所や持仏堂、湯殿など
義景の居住空間として用いられていたようです。

そして、館跡の南東には庭園跡があります。



朝倉氏館には4つの庭園があったと
されていますがそのうちの一つです。

桃山様式の庭園だそうです。


義景の時代はまだ戦国時代の最中で、特に急速に
台頭してきた信長の事は義景にとっては脅威だった筈ですが、
この様な建物の造りは貴族の御殿や、戦いが無くなった
元和以降の江戸時代のお城の御殿を彷彿とさせます。

屋敷の中の井戸越しに眺める常御殿跡の様子です。



1567年(永禄10年)に、足利義昭が朝倉義景を頼り、
この一乗谷に来たのは、義景にとって京に上り
覇権を得るまたとないチャンスでした。

しかしその機会を逃がし、それ以降も目だった
積極的な行動を起こさなかった義景。

京から多くの文化人を招き入れ、1581年(天正9年)に
この地を訪れたルイス・フロイスが「日本において
最も高貴で主要な国のひとつであり」と記した一乗谷。



義景は、戦国の武将というよりも元々、貴族的で
文化的な暮らしを好んでいたのでしょうか。

下の写真は館跡の南東側に建っていた
武者溜と蔵の跡と、その背後の土塁の様子です。




朝倉義景館跡には、西側と南北の
3か所に門が備えられていたようです。



これは館跡北側の門跡の様子です。
この門の外には水濠が巡らされていました。



土塁の高さは高いところで4mあったとの事で
さすがに護りは固められていたようです。

北西の角から眺めた様子です。



館跡の西側には唐門が建っています。
一乗谷と言えば必ず紹介される門です。



当時の遺構の様でもありますが、実際には
義景の菩提を弔う為に建てられた松雲院の門でした。

秀吉が寄進したものとも伝わります。



こちらは義景邸を囲む水濠を
南東角から眺めた様子です。

南側の土塁はひときわ高く立派でした。



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復原町並







朝倉義景館跡から、その前に広がる芝生越しに
西に向かうと、一乗谷遺跡でもう一つの
ハイライト、復原町並みがあります。

一乗谷川越しに眺める復原町並みの様子です。



橋を渡り、一乗谷川の対岸にある
復原町並みに向かいました。



復原町並みの入り口です。

この一画は、発掘調査に基づいて、
武家屋敷や町屋が復元されています。

この門を抜けると復原した武家屋敷の町並みに入ります。



土塀で囲われた武家屋敷の町並みに入ると
すぐに枡形の折れ曲がりがありました。



江戸時代の宿場町にも、集落の守りを固める為に
このような構造が用いられています。

枡形を過ぎると、土塀に囲われた通りが
南北にまっすぐに続いていました。



金沢の長町武家屋敷を彷彿とさせる眺めです。

金沢・長町武家屋敷の様子はこちらです。


この一乗谷の城下町が整備されたのは、15世紀半ば以降と
言われているようで、その先端性には目をみはるばかりです。

武家屋敷のいくつかが立体復元されており
そのうちの一つに入ってみました。



この屋敷は広さは30uと
標準的な大きさだったそうです。



左側が納屋、右側が母屋です。
建物は、絵などから推定して復元したものだそうです。
間取り等は発掘調査に基づいています。

母屋では、主がお客と将棋を指している人形がありました。



朝倉義景邸を囲む堀からは将棋の駒も出土しているようです。
現代将棋では使われていない酔象(すいぞう)と呼ばれる
駒が含まれていて、将棋の発展を知る上でも
貴重な手掛かりになったそうです。


通りの向かいの武家屋敷にも行ってみました。
薬医門形式の立派な門をくぐって中に入りました。



この辺りは朝倉氏の有力家臣が屋敷を構えています。

南北の道に沿って武家屋敷が立ち並んでいたようですが
西の山側の方が広い敷地で、上級家臣の屋敷のようです。
この屋敷はその中でも最も面積の広い屋敷です。



屋敷と屋敷の間は土塀で隔てられていたようです。
土塀の基礎の低い土塁が残っていました。



大通りを南に進み、朝倉義景邸から
離れると町屋も現れてきました。



これも江戸時代の城下町の構成と全く一緒です。



立体復元された町屋の様子です。



建物の内部には当時の暮らしぶりが
判るように、人形や色々な展示がされています。



この復原町並も見ごたえがありました。

一乗谷には最盛期には1万人もの人々が暮らしていたそうです。
きっとこうした町並みが一乗谷の谷を埋め尽くしていたのでしょう。



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南陽寺跡







復原町並みを散策したのち、義景館跡の
唐門前を通り、北に向かいました。

義景館跡を通り過ぎ、振り返って眺めた様子です。



義景館の土塁が左端に見え、
その向こう遠くに復原町並みがあります。

義景館の周囲の芝生も当時は
一門の館が建っていたのでしょうか。


この後は南陽寺跡に向かいました。
その途中で見かけた仏像です。




南陽寺は朝倉一門が創建した尼寺で
朝倉氏9代・貞景が再興したと伝わります。
貞景は義景の祖父にあたる人物です。

南陽寺跡は義景館の北側に位置しています。
途中で、集落が現れました。



一乗谷遺跡は発掘調査が進み、
多くの家が立ち退いたりしていると思います。
この一乗谷遺跡が発掘され、整備・保存されているのは
一乗谷に暮らしていた人たちの協力なくては実現していません。

この集落の裏手に、山肌を登る小道がありました。



小道を登った高台からの眺めです。



左手に義景館跡があり、周囲に芝生が広がっています。
この右手に先ほどの集落がありました。


この高台の上に空き地が広がっていました。
ここが南陽寺跡です。



広さは5,000uにもなるそうです。
広い敷地の中央手前に仏殿跡があり、
その右手に庭園跡の石組みがありました。



この庭園は、一乗谷の朝倉氏館で確認されている
4か所の庭園の一つです。

1568年(永禄11年)、義景が足利義昭を招き
観桜の宴を催したことが記録に残っています。


南陽寺跡の下には瓜割清水と
呼ばれる湧水がありました。



夏も冷たい水が湧き、売りが割れたという
伝説からこの名が付いています。

どんな渇水の際にも枯れたことがないと言われ
朝倉氏の御膳水に用いられていたそうです。
今でも、綺麗な水を湛えていました。



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雲正寺地区







南陽寺跡から次の見どころを目指しました。
再び、一乗谷川を渡り、谷の西側へと渡りました。



南陽寺から、一乗谷川を渡り、谷の西側にある
当時の街並みを平面復元した地区へと向かいました。

平面復元は広い範囲でされていますが、
まずは、その南側にある雲正寺地区です。



この雲正寺地区は一乗谷で最も大きな支流の
八地谷川の造る谷沿いに位置しています。
八地谷の奥まで屋敷が建ち並んでいたそうです。



上の写真は谷の入口の様子です。
この辺りは大きな敷地の屋敷があったようで
掘立柱の建物群が確認されているそうです。

この町並みは八地谷川に沿う東西の大通りと、
その途中で分岐する南北の大通りで構成されています。



東西の通りは八地谷川に沿って、
川の岸が石積の護岸になっていて、
これは全国的にも珍しいそうです。


雲正寺地区から眺める南陽寺跡の様子です。



一乗谷川の対岸の高台が南陽寺跡です。

この雲正寺地区から北側にある
赤渕・奥間野地区へと向かいます。



南北の主要道路から振り返って眺めた様子です。
館跡の周囲をめぐる土塁や道の端を
保護する石積みが見られます。



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赤渕・奥間野地区







雲正寺地区から北に歩くと
赤渕・奥間野地区へと入ります。



積みなおされたものと思いますが、二つの地区を
結ぶ道路の脇には立派な石垣がありました。

赤渕・奥間野地区の様子です。
芝生で表面を覆われた雲正寺地区とは異なり
発掘調査の後に屋敷の区画や礎石などが
表示されています。



この辺りは山際に近く、武家屋敷が並んでいた一角です。
其々の屋敷には井戸が設けられていました。

この一乗谷の遺跡で特徴的なのは
この井戸のようにも思います。

朝倉義景館跡でも、立体復元された地区でも
こうした井戸がいくつも並んでいます。

谷の中心を一乗谷川が流れ、その伏流水などが
豊富にあったのでしょうか。
こうした水の恵みのおかげで、1万人もの
人口を支えられたのでしょうか。


山際の屋敷跡です。



訪れたのは梅雨の最中の7月11日。
史跡には紫陽花も咲いていました。



この赤渕・奥間野地区では、建物のいくつかは
発掘調査によって、医者の家だったり、
お寺だったりとその職業が特定されています。


これはお寺跡の様子です。



墓地跡もありました。



武家屋敷やお寺や医者の家とか区画の広い屋敷は、
南北の幹線道路から離れたところに位置していました。



幹線道路の近くの家は区画が狭くなっています。



道路に沿って町屋が並んでいたようです。
一乗谷のそれぞれの地区で、生活圏が
形成されていたのでしょうか。



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朝倉景鏡館跡







赤渕・奥間野地区から更に北に向かいます。



一乗谷川が近づき、大きく湾曲して流れていきます。
この川の湾曲した流れで出来た平地に
朝倉景鏡の屋敷がありました。

朝倉景鏡は朝倉義景の従兄弟にあたり、大野郡司を
務めるなど、一族の中でも高い位置に就いていたそうです。

屋敷の南側の空堀の様子です。



空堀の隣には土塁が設けられ、
その奥に屋敷跡が広がっていました。



屋敷の広さは5,000u以上あったとされ、
朝倉義景館に次ぐ広さを誇っていたようです。



発掘された館跡は埋め戻され、芝生が広がっていました。
屋敷跡の南側、土塁の近くに建物がありました。

この朝倉景鏡が、大野に逃げ込んだ義景を最後に裏切り、
自刃に至らしめたと思うと、この屋敷跡に佇んでいても
得も言われぬ感慨を覚えます。


この朝倉景鏡館から、西側の山懐へと向かいました。



この辺りは瓢町(ふくべまち)地区と
呼ばれる集落があった辺りです。



この辺りは他の地区とは異なり、井戸は共同で、
町割りも道路に沿った区画にはなっていなかったそうです。



この瓢町地区は比較的狭く、東側に大きな区画の屋敷があり
この南北道路に沿って、町屋が並んでいたようです。



瓢町地区の北側では谷が狭まり
一乗谷川の流れのすぐ脇を歩くようになりました。



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下城戸







一乗谷の谷幅が狭まったところに、
下城戸が設けられていました。



上城戸と合わせ、朝倉氏の居館のあった
一乗谷の守りを固めていた城門にあたります。
この下城戸は長さ20mに渡って、当時の土塁が残っていました。



土塁の幅は18m、高さは5mもある堂々としたものでした。

土塁の山側には枡形も設けられていました。



石垣で折れ曲がった通路が形成されています。
ここには重厚な門がお受けられていて
門番が一日中見張りをしていた事と思います。


土塁の北側には2重の水堀もありました。



この下城戸を見て、一乗谷の守りの固さを実感しました。



信長軍がここを襲うまで、この下城戸と
1.7m南にある上城戸の二つの城門に守られ、
朝倉氏は華やかで豊かな暮らしをしていた事でしょう。



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西山光照寺跡







下城戸の近くに厳かな雰囲気の神社がありました。
安波賀春日神社です。
朝倉氏が一乗谷を居城としていた頃から続く神社です。



当時は、南陽寺や安養寺、赤渕神社などもありましたが
現在残る唯一の社寺となっています。

創建されたのは1068年(後冷泉天皇治暦4年)と、
かなり古く、平安時代に遡ります。

由緒書を見ると、"当時国中随一の大社にて"という記載があります。
朝倉氏以前にも、この一乗谷には多くの人が住み、
勢力を誇ってうたんでしょうか。


急な石段を上がり、本殿に向かいます。



この春日神社は、朝倉氏の崇拝が厚い神社で
戦勝祈願を行っていたところです。

山の中腹に立派な社殿がありました。



朝倉義景が滅んだ際に、この春日神社の社殿も
焼失してしまいますが、1697年(元禄10年)、当時の
越前藩主・松平吉昌公が社殿を復興しています。

1934年(昭和9年)に改修されたこの社殿は、
福井市の文化財に指定されています。

高い位置から眺めた春日神社の社殿です。



春日神社にある瀧殿社には、義景が用いていた
馬具をご神体として祀っているそうです。


春日神社から北西を目指して歩きました。



道端には百合の花でしょうか、
綺麗な花が咲いていました。


JR越後北線の線路を眺め、その先を歩いていくと
草むらの中に、石仏が見えてきました。



ここが西山光照寺跡です。
西山光照寺は隆盛を極めていた天台宗のお寺です。



7代・朝倉孝景の叔父・鳥羽将景が一族の争いに敗れ
その菩提を弔う為に建てられたとも伝わるそうです。

この西山光照寺跡には40体程の石仏が遺されています。



山際に本堂が建てられていたそうです。



本堂の跡地は更地になってしまっていましたが
石仏の様子はとても印象的でした。



ここまで足を運ぶ観光客は少ないようで
静かな時が流れていました。


この西山光照寺跡が、滅亡してしまった朝倉氏を
象徴しているようで、非常に印象的な場所でした。



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