北ノ御門跡から二の丸へ
鳥取駅から歩いて30分、バスで10分程で鳥取城に着きます。
鳥取城の南西部には、城下町とを隔てる堀が延びています。
その堀から久松山とその麓の近世・鳥取城が眺められました。
撮影: 2019年11月
堀には2つの橋が架けれらています。
一つは、中ノ御門へと繋がる橋で、もう一つが
その北西にある北ノ御門へ繋がる橋です。
中ノ御門は、いわば鳥取城の正門にあたり、
北ノ御門は搦手門にあたりますが、鳥取城へは
この北ノ御門から入城しました。
撮影: 2012年5月
北ノ御門前の堀の様子です。
堀の城側には石垣が続き、江戸時代の鳥取城の威容を想像させます。
撮影: 2012年5月
北ノ御門から城内に入った左手には、江戸時代には
米蔵、上御厩そして城代屋敷があったそうです。
撮影: 2012年5月
城代屋敷跡には鳥取県立の博物館が建てられています。
通路を挟んだ反対側には瀟洒な建物が建っていました。
仁風閣です。
撮影: 2012年5月
この建物は1907年(明治40年)に、大正天皇が皇太子時代に
山陰地方を御幸する際に、元鳥取藩主・池田仲博が
扇御殿跡に建立したものだそうです。
撮影: 2012年5月
フレンチ・ルネッサンス様式というそうですが、
白い建物はとても綺麗でした。
1973年には国の重要文化財に指定されています。
仁風閣の奥には宝隆院庭園が広がっていました。
撮影: 2012年5月
11代鳥取藩主・池田慶栄の正室・宝隆院は
夫に先立たれ寂しい日々を過ごしていたので、
それを慰めようと12代藩主・池田慶徳が
1863年(文久3年)に築いた庭園です。
文久3年と言えば、尊王攘夷派と佐幕開国派との
抗争が激しくなり、京都では蛤御門の戦いが起き、
薩摩・会津両藩が長州藩を京都から追い出しています。
鳥取では、そんな抗争とは無縁の時が流れていたのでしょうか。
撮影: 2012年5月
宝隆院庭園からは久松山の山頂と
二ノ丸の石垣が良く見えていました。
仁風閣から更に先に進みます。
久松山の山裾で左に折れます。
撮影: 2012年5月
左手に折れた先に中仕切門がありました。
中仕切門は1943年(昭和18年)の鳥取大地震で
倒壊したものを復元したものです。
撮影: 2012年5月
中仕切門は当時の面影を良く残していました。
中仕切門を過ぎると、左手に二ノ丸の石垣が聳えていました。
その手前に、二ノ丸へと続く石段が続いていますが、
石垣の下を真っすぐに進みました。
撮影: 2012年5月
二ノ丸の石垣の下を通り、二ノ丸の東南隅に出てきました。
見上げるような立派な二ノ丸の石垣です。
撮影: 2012年5月
このすぐ下には二ノ丸と三ノ丸との間の太鼓御門がありました。
鳥取城をどのように攻略しようかと迷いましたが、まずは二ノ丸を
目指そうと、来たた道を戻り、二ノ丸へ向かいました。
二ノ丸の真下の中ほどに石段があり、その石段を登ります。
撮影: 2012年5月
この石段を上った先に、二ノ丸の裏御門へと
続く立派な石段がありました。
裏御門は元々、粗末な門だったそうですが、
江戸時代末に櫓門に改築されたそうです。
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二ノ丸
石段を上り、二ノ丸の裏御門へと向かいました。
立派な石垣に囲われていますが、その名の通り、
ここは二ノ丸の搦手になります。
撮影: 2019年11月
裏御門跡で振り返ると、仁風閣の向こうに
鳥取の街並みが見えていました。
二ノ丸は、江戸時代初期に鳥取城の中枢だった曲輪です。
裏御門から左手(西北)方向の様子です。
撮影: 2012年5月
久松山の山裾に沿って細長く伸びています。
二ノ丸の西北の角には、登り石垣がありました。
撮影: 2012年5月
登り石垣は、山の斜面に沿って石垣を築き、
山からの敵の進入を防ぐ石垣で、松山城や
彦根城の登り石垣が知られています。
鳥取城では、どこまでこの石垣が続いているかは
分りませんでしたが、山裾の石垣の様子では
登り石垣と思いました。
二ノ丸の西北の端の近くから眺めた麓の様子です。
撮影: 2012年5月
上の写真左は、鳥取県立博物館の様子です。
江戸時代には城代屋敷があった場所です。
上の写真右は仁風閣です。
二ノ丸裏御門の東南側には、御三階櫓の櫓台がありました。
撮影: 2012年5月
1692年(元禄5年)に落雷によって山上ノ丸の天守が焼失してしまい、
その後、再建されることはありませんでしたが、天守焼失後は
天守代用となっていたのが、二ノ丸の御三階櫓でした。
撮影: 2019年11月
2019年11月に訪れた時には、若いカップルが
鳥取の街を眺めながら話し込んでいました。
御三階櫓台からは鳥取の街が一望できます。
眼下には仁風閣が見えています。
撮影: 2012年5月
細長い二ノ丸の東南端には走櫓がありました。
下の写真は、走櫓跡から御三階櫓台を眺めた様子です。
撮影: 2012年5月
細長い走櫓は多聞櫓だったように思います。
ここでは、家老らが政務を行っていたそうです。
走櫓の左手には二ノ丸御殿が建っていました。
18世紀の初めには三ノ丸に御殿が建てられ、
鳥取城の本拠はそちらに移っており、しかも
1720年(享保5年)に、二ノ丸御殿は焼失してしまいました。
二ノ丸御殿が再建されたのは、江戸時代末期の
1846年(弘化三年)の事でした。
走櫓の東南側からは、二ノ丸菱櫓の石垣や
三ノ丸の様子が眺められました。
撮影: 2012年5月
上の写真の右側が三ノ丸跡の様子です。
三ノ丸跡には鳥取西高校が建っています。
走櫓の奥には菱櫓の櫓台があります。
撮影: 2012年5月
菱櫓跡からは天球丸や、三ノ丸へと続く太鼓御門が見下ろせました。
二ノ丸から天球丸に書けては石垣が幾重にも重なり、
とても見ごたえのある光景です。
撮影: 2012年5月
菱櫓の北側には二ノ丸の正門にあたる鉄御門がありました。
撮影: 2019年11月
立派な石垣が残っており、当時はこの石垣に櫓門が載っていました。
その姿は、威風堂々としたものだったと思います。
撮影: 2019年11月
この後、天球丸へ向かいました。
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天球丸から三ノ丸
鳥取城二ノ丸の東北側には天球丸があります。
天球丸は、初代鳥取藩主・池田長吉の姉、
天球院にちなんで名づけられた曲輪だそうです。
天球院は、若狭鬼ヶ城の城主・山崎家盛に嫁ぎましたが、
山崎家を去り、弟の長吉の下で暮らすようになったそうです。
二ノ丸の菱櫓跡の石垣から眺める天球丸の石垣です。
撮影: 2012年5月
二ノ丸の正門、鉄御門を出て左手の天球丸に向かいました。
その正面が天球丸の入口にあたる風呂屋御門となります。
その左手の石段を登って行きました。
石段を登って真っすぐ進むと、山上ノ丸への登城道へと続き、
天球丸へは石垣を上った所から折り返して進みます。
撮影: 2019年11月
その石段を上り、天球丸の西北の端から
二ノ丸の鉄御門の石垣を眺めた様子です。
撮影: 2019年11月
石段を上った所から東南に向かうと、
天球丸の風呂屋御門の石垣を眺めました。
撮影: 2012年5月
風呂屋御門も、櫓門形式の立派な門だったようです。
風呂屋御門を見下ろす位置に、井戸跡がありました。
風呂屋御門を過ぎた所からの三ノ丸方面の眺めです。
撮影: 2012年5月
真ん中やや右手の石垣は二ノ丸鉄御門の櫓台で、
三ノ丸はその奥の下側に位置しています。
この先には天球丸の曲輪が広がっていました。
江戸時代には、天球丸の東の端には三重櫓が建っていたそうです。
その三重櫓は、1720年(享保5年)に焼失してしまっています。
撮影: 2019年11月
この天球丸の土台の石垣には、日本で唯一の球状の石垣があります。
撮影: 2019年11月
天球丸が整備されたのは1617年(元和3年)以降の事です。
江戸時代の中期になると、石垣の緩みや孕みが酷くなったようです。
その緩みで崩壊しそうになった石垣を修繕する目的で
1807年(文化4年)頃に築かれたのが巻石垣です。
撮影: 2019年11月
今見る姿は、復元されたものですが、球状のこの石垣が
地球儀のようで、天球という名に相応しいように思えてきます。
天球丸から三ノ丸へと向かいました。
天球丸からの下り坂を二ノ丸の鉄御門へと向かいます。
撮影: 2019年11月
坂道の先に石垣があり、その向こうに
鳥取西高校の校舎が見えています。
撮影: 2012年5月
鳥取西高校の敷地が、鳥取城の三ノ丸になります。
下の写真は振り返って二ノ丸菱櫓の石垣を眺めた様子です。
撮影: 2012年5月
江戸時代に入ると、久松山山頂の山上ノ丸は使われなくなり、
現在の二ノ丸が本丸、三ノ丸が二ノ丸と呼ばれていたようです。
撮影: 2012年5月
1716年(享保元年)には池田吉泰が三ノ丸に
御殿を築き、三ノ丸が本丸の役割を担います。
この後点は、1720年(享保5年)の大火で焼失しますが、
幕末の1860年(万延元年)に再び三ノ丸が整備されました。
撮影: 2012年5月
太鼓御門跡を過ぎると大手登城路となります。
撮影: 2012年5月
東に三ノ丸、西には宝隆院庭園よりも
一段低い曲輪が広がっていました。
大手登城路の南端には中ノ御門が建っていました。
撮影: 2012年5月
中ノ御門は現在復元が進められていて、
2021年に中ノ御門表門が復元され、
櫓門は2025年に竣工予定です。
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山上ノ丸
鳥取城の山上ノ丸は、久松山の山頂にあり、
中世の鳥取城の縄張りのあった所です。
山上ノ丸へは二ノ丸北側の中坂稲荷神社の脇から上ることが出来ます。
社殿の幕の家紋は、因州蝶と呼ばれる鳥取藩池田家の家紋です。
撮影: 2019年11月
もう一つの登城口は、天球丸の西北端からになります。
こちらには、「熊注意」の看板があり、気を引き締めました。
撮影: 2019年11月
しばらく上ると、八幡宮跡がありました。
八幡様は武運の神様です。
撮影: 2012年5月
八幡宮跡を過ぎると本格的な登り道になりました。
流石に登城道は整備されているので、普通の山城とは違い
雑草で路が覆われているという事はなく、上りやすい道でした。
撮影: 2012年5月
登城道の途中には、一合目毎に案内板が
立っていて登城の目安になります。
下の写真は三合目になります。
撮影: 2012年5月
鳥取城の山上ノ丸は、他の山城と同じ程度の比高200m程の
高低さを上りますが、途中で何人もの人と出会いました。
撮影: 2019年11月
この先で、景色が開けました。
撮影: 2012年5月
鳥取の街を眼下に見下ろす眺めで、
思っている以上に高い位置まで上っていました。
撮影: 2012年5月
このすぐ先に小さな神社がありました。
この社殿にも因州蝶の幕が張られています。
撮影: 2019年11月
この神社の先で五合目の標識があり、
山頂まで半分の折り返し点でした。
五合目からも険しい上り坂が続きました。
下の写真は八合目の様子です。
撮影: 2019年11月
こうして25分程で、山上ノ丸の石垣が見えてきました。
正面左手の石垣は、山上ノ丸の本丸石垣です。
撮影: 2012年5月
本丸の手前右手に二ノ丸、三ノ丸がありました。
右に折れたところに休憩所のある二ノ丸があり、
木々の間の小路を進んだ先に三ノ丸があります。
撮影: 2012年5月
訪れた時には気が付いていませんでしたが、
三ノ丸の奥にはロープウェイの廃駅があったようです。
1969年(昭和44年)から僅か7年間、久松山と
北西側の麓を結んで営業されていたようです。
山上ノ丸の二ノ丸から石段を上り、
本丸へと向かいました。
撮影: 2012年5月
虎口を抜け、本丸を眺めた様子です。
本丸の奥に天守台があります。
撮影: 2012年5月
本丸の左手(南側)からは麓を眺められます。
本来なら眼下に鳥取の市街地を眺められますが、
右手からガスが迫り、雨脚も激しくなってしまいました。
撮影: 2012年5月
2012年5月に訪れた際は、ここで鳥取城の散策を諦めて引き返しました。
そのリベンジは7年半後の2019年11月でした。
2019年の際は、曇っていましたが雨は降らずに7年半前に断念した、
山上ノ丸の本丸跡から鳥取の街を見下ろす事が出来ました。
撮影: 2019年11月
標高263mの久松山からの鳥取市街地の眺めは、素晴らしいものでした。
本丸には天守の他、著見櫓、多門櫓、走櫓など多くの櫓があったそうです。
下の写真は、山上ノ上丸の本丸奥に位置している天守台です。
撮影: 2019年11月
鳥取城では1573年(天正元年)に3層の天守が建てられたそうです。
江戸時代に入って初代藩主・池田長吉によって2層に改築されています。
天守台は思ったよりも広く、中央には穴蔵がありました。
撮影: 2019年11月
天守台の北西側からは日本海も眺めることが出来ます。
下の写真には、鳥取砂丘も写っています。
撮影: 2019年11月
こうして、鳥取城の散策を終えました。
山上ノ丸は中世の山城の雰囲気を残し、
山下ノ丸は、近世城郭の見事な石垣が眺められ
充実した散策をすることが出来ました。
令和に入ってからは、中ノ御門の復元が
進められており、また訪れてみたいお城です。
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