馬場崎櫓から東門
津和野の中心部から南に向かい、津和野川を渡ると、
津和野高校の入り口の所に、馬場先櫓があります。
撮影: 2011年7月
馬場先櫓は、幕末の1854年(嘉永6年)に藩邸が
火災に遭った際に焼失しましたが、1856年
(安政3年)に再建されたものです。
この先、右手に江戸時代の津和野藩の
藩庁跡だった嘉楽園がありました。
撮影: 2011年7月
当時は、南北300m、東西140mの敷地があり、
北側に建物、南側に庭園があったようです。
その庭園が、嘉楽園と名付けられていました。
嘉楽園には物見櫓が移築されていました。
撮影: 2011年7月
物見櫓は藩主が祭礼等の催し物を見物する際に
使われた建物だったそうです。
嘉楽園脇の坂道を歩いて行くと、
津和野城址に向かうリフトがあります。
撮影: 2011年7月
麓からの登城道もありますが、歩いて登ると
30分程はかかりそうなので、このリフトで
山頂の津和野城の主郭跡を訪れました。
リフトに乗っている時、SL「やまぐち」号の
汽笛とドラフト音が山間に響きました。
リフトで簡単に霊亀山に上れますが、津和野城の
主郭部に向かうには、尾根道を更に歩きます。
撮影: 2011年7月
主郭部に向かう途中、堀切がありました。
撮影: 2011年7月
中世の吉見氏時代に築かれた堀切の様です。
津和野城は中世時代には、このような堀切や
竪堀で城の護りを堅くしていたようで、
築かれた空堀の数は88か所に及ぶそうです。
堀切の先には出丸がありました。
撮影: 2011年7月
この出丸は坂崎直盛が津和野に移封になった際に、
津和野城を改築していますが、その際に築かれました。
この出丸の築城を、弟で家老の浮田織部に任せたので
織部丸とも呼ばれています。
撮影: 2011年7月
立派な石垣の門跡を抜けると、
細長い曲輪がありました。
撮影: 2011年7月
南北44.5m、東西18mの広さがあり、門を入って右手に
番所があり、石垣に沿って塀が巡らされていたようです。
曲輪の北東隅には櫓も建っていたようです。
出丸からは、津和野の街が一望に出来ました。
撮影: 2011年7月
谷の向こうには山口線の線路も見えています。
もう少し、この出丸に来るタイミングが早ければ、
「やまぐち号」も眺める事が出来たので、残念でした。
出丸からもしばらく尾根道を歩きます。
撮影: 2011年7月
やがて視界が開け、案内板がありました。
撮影: 2011年7月
この辺りには井戸があったようです。
この先から上り坂になりました。
撮影: 2011年7月
坂道を上ると二ノ丸の石垣が見えてきて、
その先に東門跡の石垣がありました。
ここが主郭部の入り口になります。
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台所・三ノ丸から天守台
東門から仮設のスロープを登って行きました。
左手には二ノ丸の石垣、右手には三段櫓の
石垣が折重なるように見えていました。
撮影: 2011年7月
仮設のスロープを登ると、右手に台所のある郭の
虎口とその隣の西門櫓の石垣が見えてきました。
撮影: 2011年7月
上の写真右手の草の生い茂る
スロープを登ると台所のある郭です。
この郭は天守台から西に延びています。
この郭からは三の丸への通路を隔てて、
天守台が良く見えていました。
撮影: 2011年7月
細長い郭の左手には馬立が並び、
その奥に台所があったようです。
撮影: 2011年7月
郭の中央に案内板が立っていますが、
そこから右手に進むと三段櫓跡です。
郭の西の端まで向うと、こちらにも
立派な虎口の石垣がありました。
撮影: 2011年7月
右手の石垣の上には、海老櫓が載り、
左手には多聞櫓が建っていたようです。
再び、天守台の下まで戻り、天守台と西門櫓台
との間の通路を通り、三ノ丸へ向かいました。
撮影: 2011年7月
三ノ丸は、天守台から南に細長く伸びる曲輪です。
津和野城で最も高い位置にある三十間台と
その南側の人質櫓台が高く聳えています。
撮影: 2011年7月
三の丸の南側も立派な虎口の石垣が残っています。
当時はここに南門櫓が建っていました。
撮影: 2011年7月
三ノ丸の南門櫓跡の石垣から、天守台に戻りました。
天守台から眺める西側に伸びる曲輪の様子です。
撮影: 2011年7月
通常、天守台はお城の一番高い曲輪にある例が多いのですが、
津和野城の天守は二ノ丸にあり、しかも津和野城で最も高い
位置にある三十間台の裏側に隠れるような位置にあります。
撮影: 2011年7月
上の写真は、天守台から三十間台へと続く斜面に築かれた石垣です。
坂崎直盛が三重の天守を建てましたが、1686年(貞享3年)に
落雷に遭い焼失し、その後は再建されませんでした。
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太鼓丸・三十間台
天守台から、津和野城で最も高い
位置にある三十間台へと向かいます。
撮影: 2011年7月
上の写真の右手の石垣が三十間台の石垣です。
斜面を登っていくと、三十間台の北側にある
太鼓丸へと辿り着きました。
撮影: 2011年7月
広々とした太鼓丸の曲輪です。
この太鼓丸は江戸時代初め、
坂崎氏時代に築かれています。
太鼓丸からは、津和野川の造る谷を隔てて、
円錐形の青野山が良く見えていました。
太鼓丸の南に、三十間台の虎口の石垣が見えています。
撮影: 2011年7月
草に覆われた石段を登り、三十間台に向かいます。
撮影: 2011年7月
三十間台は、津和野城の本丸にあたる曲輪です。
三十間台からは、津和野川の谷に広がる
津和野の集落が一望出来ました。
撮影: 2011年7月
石見瓦の赤い色の建物が、緑の豊かな
谷あいに良く映えています。
撮影: 2011年7月
さだまさしが「案山子」で詠った津和野の
町の様子はここからの眺めだったと思います。
撮影: 2011年7月
三十間台は石垣で固められ、霊亀山の
山頂部に舞台の様に迫り出しています。
三十間台の南側には、人質丸と名付けられた
狭い石垣で囲われた曲輪があり、その向こうに
一段低い所にある三の丸の細長い曲輪が見えています。
撮影: 2011年7月
この眺めは、脚が竦みそうな眺めですが、
天空の城そのものの眺めでした。
撮影: 2011年7月
上の写真は、三十間台の南端から津和野の中心街を眺めた様子です。
谷の反対側の山の麓には、山口線の線路も見えています。
煙を上げて走る「SLやまぐち号」も眺めてみたいものです。
三十間台からの天空の城の眺めを、暫く
堪能した後、リフトに乗って麓に戻りました。
リフトを下り、霊亀山の麓の道を南に歩いた
所から見上げた津和野城址の様子です。
撮影: 2011年7月
夕日が、丁度城址の石垣に掛かっていました。
この先に、江戸時代の登城口がありました。
撮影: 2011年7月
この登城口には「ツキノワグマ
生息地注意」の看板がありました。
今回の津和野城の登城は時間の余裕もなく
リフトに乗りましたが、時間の余裕があっても
登城道を登るのは避けた方が良さそうです。
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