宇和島城
Uwajima Castle, Japan


登城日:
2009. 7. 26







【宇和島城 概要】


宇和島城は、戦国時代の1546年(天文15年)に
高串道免城主の家藤監物が板島串城に入ったのが、
記録に現れた最初だそうです。

近世城郭としての宇和島城は1595年(文禄4年)に
築城の名手と言われた藤堂高虎が、
宇和郡7万石の領主としてこの地に封じられ、
1596年(慶長元年)から1601年(慶長6年)に
かけて築城したのが始まりです。





藤堂高虎は1608年(慶長13年)に今治に
移封になりますが、その後、1614年(慶長19年)に
仙台藩主・伊達正宗公の長子・秀宗公が
宇和郡10万石に封じられ、以降明治まで
宇和島城は宇和島藩主の居城として
その機能を果たしています。

宇和島城は周囲を山に囲まれた狭い平地にある
標高74mの小高い城山に築かれています。



城山の山頂部分は平らに削られ、本丸が配置され、
現存12天守の一つで、1666年(寛文6年)に築かれた
3重3階の天守が建っています。

城山には、二ノ丸などの曲輪が、いくつか
配置され山城の様な縄張りになっています。

当時は、北側の麓に三之丸が配置され、
城山の周囲を五角形の堀が取り囲んでいましたが
今では、堀もすべて埋められています。


宇和島市の宇和島城のサイトはこちらです。



【宇和島城へのアクセス】


JR宇和島駅から南に約1.0km、
徒歩でも15分程です。

また宇和島駅から宇和島バスで、岩松方面に
向かい,宇和島バスセンター下車すぐです。

バスの時刻は、こちらです。

宇和島と宿毛を結ぶバスの
乗車記はこちらです。




【宇和島城登城記】



三之丸から藤兵衛丸、長門丸
Nov. 07, '12

二之丸・本丸
Nov. 11, '12

天守
Nov. 17, '12

本丸から上り立ち門
NEW ! Nov. 23, '12



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三之丸から藤兵衛丸、長門丸







2009年7月26日、この日は午前中に四万十川沿いを
サイクリングし、その後、土佐くろしお鉄道宿毛線と
宇和島バスを乗り継いで宇和島に入りました。

土佐くろしお鉄道宿毛線の乗車記は
こちらです。
宇和島バスの乗車記はこちらです。

宇和島に着くと、駅近くのホテルに荷物を置いて
さっそく宇和島城を目指しました。

町中を歩き、10分程で小高い丘の上に建つ
宇和島城の天守が、建物の間に見えて来ました。



特に標識があったとは記憶していないのですが
市街地を抜け城山の麓に向かうと、宇和島城の
登城口となっている長屋門が見えてきました。



この長屋門は宇和島藩の家老・
桑折氏の長屋門を移築したものです。

当時は、この手前には三之丸御殿が建ち
その北側に堀が巡らされていましたが、
今ではその面影もありません。


桑折氏武家長屋門を抜けると、
すぐに登城道の急坂が続いていました。



登城道が狭く急な石段だったので、
こちらは搦手口かな、とも思ったのですが、
後で調べてみるとこちらが大手口の様です。

石段の続く道を歩いてしばらく行くと
立派な石垣が現れました。



鬱蒼とした木々の中の石垣は、
古城の雰囲気が漂っていました。

この石垣は井戸丸の石垣です。

井戸丸門の狭い虎口を抜けた、石垣の上の
曲輪には、当時の井戸が残されていました。



この井戸丸からは更に狭い登城道が
木々の間に続いていました。



この先で登城道はT字路に突き当たります。

左の道は真っ直ぐ天守へと向かい、
右に進むと本丸を取り囲む様に配置されている
藤兵衛丸や長門丸へと行くことが出来ます。

逸る気持ちを抑えて、右手の道を進み、
藤兵衛丸へと向かいました。



この曲輪は、城山郷土館が置かれています。
この郷土館の建物は、当時は城山の麓の
三之丸に建てられていた武器庫で
山里倉庫と呼ばれています。

この奥に長屋門が移築されていました。



この長屋門は明治初期に法学博士として名高い
穂積陳重・八束氏の生家の長屋門だそうです。


この藤兵衛丸から更に奥の長門丸へと向かいました。



長門丸は一段低い位置にあるので、
二つの曲輪の境にある雷門の石垣を抜けて
緩やかな石段を下って行きました。

長門丸は、藤兵衛丸よりも一際大きな曲輪です。



ここは遊具が置かれ、曲輪の一角
には貯水池も置かれていました。

この藤兵衛丸には北の端に東西の二つの矢倉、
西の端には長矢倉と呼ばれる多聞櫓があったようです。



北角矢倉の櫓台跡への石垣です。

櫓台の端から眺めた長門丸北側の石垣です。



急勾配の立派な石垣でした。
こちらは長門丸から城山の麓に向かう道に下り、
西角矢倉の石垣を眺めた様子です。



深い木々の中に立派な
櫓台の石垣が聳えていました。

この長門丸から雷門へ戻り、
更に本丸を目指しました。



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二之丸・本丸







長門丸から、雷門を通り藤兵衛丸の前を通り、
登城口を上ったところにあったT字路まで戻ります。

ここを過ぎて再び石段が続くようになると
木々の向こうに立派な石垣が見えてきました。



石垣に辿り着くと、登城道は石垣に沿って
右に折れ、石段の幅も広くなりました。



この石段を上りきったところが三の門です。

石段の左手の石垣の上には
書物矢倉が建っていたようです。

本丸に向かう敵は、ここで矢倉からの
攻撃を受ける構造になっています。



書物矢倉の建っていた帯曲輪から
眺めた本丸石垣の様子です。

登城道はここで再び右に折れ曲がり
二之丸へと石段が続いています。



ここでも石段は本丸石垣に沿っています。
当時は、石段の上に北角矢倉がありました。

この石段を上りきった辺りで振り返ると
宇和島城の現存天守の姿が見えていました。



麓から遠く眺めた天守がやっと近くで眺められました。


かつては、石段を上りきった所に二の門があり、
その先に、本丸よりも一段低い二之丸がありました。

二之丸から南側を眺めた様子です。
櫛形門(一の門)の立派な石垣があります。



二之丸の北側には算用矢倉跡がありました。



この矢倉は雷門を見下ろす位置にあります。
算用矢倉の櫓台の石垣は、幕末に
修復された跡が残っているそうです。

近世城郭の二之丸は広い面積を有し
御殿などが建ち並んでいるお城が多いのですが、
中世山城の雰囲気の残る宇和島城の
二之丸は狭く、すぐに本丸に向かいました。

本丸入り口の櫛形門の虎口です。



櫛形門を抜け本丸に入り、
その脇にある北角矢倉跡の様子です。



こちらは、北角矢倉から櫛形門を隔てて
反対側にある櫛形門矢倉跡です。



宇和島城の本丸からは街の向こうに、
遠く宇和島湾が見えていました。



この景色を眺め、いよいよ
宇和島城の天守に向かいました。



その本丸の中央に位置する御台所跡の石垣です。

本丸は、周囲を北角矢倉、櫛形門矢倉をはじめ
南角矢倉、鉄砲矢倉、弓矢倉など多くの多聞櫓に
囲われた堅牢な防御が施されていました。



今は、木々が生い茂り、のどかな光景ですが
当時は、この眺めとは全く異なっていた事でしょう。

宇和島城の現存天守を間近に仰ぎ見ました。



この天守は、1666年(寛文6年)頃に再建されました。
いよいよ、天守の中へと入っていきました。



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天守







宇和島城の本丸の奥に進むと
現存天守が目の前に聳えて来ました。

この天守は、宇和島藩の伊達家二代藩主・宗利公が
1666年(寛文6年)に再建した、3重3階の層塔型です。



各階に破風が並び、小粒ながらも
格式高い天守の威厳を保っています。



天守の内部は、現存天守特有の
明り取りの少ない構造となっていました。

そして、これまた現存天守ならではの
急勾配の階段です。



急な階段の向こうには障子が見えています。
何気に写っている障子ですが、現存天守で障子建具が
残っているのは、この宇和島城だけだそうです。


この階段を上った2階には、宇和島城
天守の模型が飾ってありました。



1860年(万永元年)の修理の際に、
造られたものだそうです。

余分な展示物の無い宇和島城天守の様子です。



通常の天守や櫓で見られる鉄砲狭間や矢狭間、
石落としなどは、この宇和島城天守では見られません。

江戸時代初期とはいえ、戦がなくなって50年も
経った時代に再建された天守故でしょうか。

この階段を上り、最上階に向かいました。



最上階の階段の入り口の様子です。
天守の古い瓦が展示されています。


最上階は高欄こそありませんが、
宇和島の景色を眺める事が出来ました。



上の写真は、宇和島駅方向の眺めです。
山間の狭い平地一杯に宇和島の中心街が
広がっている様子が手に取るように見えました。

こちらは、宇和島城の西側の様子です。



本丸の木々の向こうに、
静かな宇和島湾が見えました。



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本丸から上り立ち門







宇和島城の現存天守に上った後、
搦め手口に向かいました。

その途中、本丸の南西下にある
代右衛門丸に向かおうと思ったのですが、
その入り口の所で通行止めになっていました。



そこで、3度目の雷門を通り、長門丸の南にあった
長門丸門跡を通り、搦め手口を目指しました。



長門丸門跡の石垣の様子です。
当時、ここは枡形城の門があったようです。


この先、搦め手口も木々が生い茂った
狭い道が続いていました。

その道の先に、代右衛門丸の石垣が見えてきました。



見上げるようなこの石垣は、南角矢倉の櫓台です。



搦め手口の登城路は、代右衛門丸の
すぐ下を通っているので、ここを攻め上ってくる敵は
石垣の上の櫓から一斉攻撃を受ける事でしょう。

搦め手口への登城路は、更に先へと繋がっています。



坂道を下り、今度は式部丸の石垣が見えてきました。



式部丸は、代右衛門丸の一段
低い位置にある小さな曲輪です。

石垣の一部は崩れていました。
ブルーシートが掛けられ修復の真っ最中のようでした。


登城路は、この先も式部丸の石垣の
下を回り込むように続いていました。



式部丸の石垣を過ぎると、登城路は
まっすぐ城山の麓へと伸びていました。



登城路の脇には、低い石垣が斜面に沿って続いていて
規模の小さな昇り石垣の様な感じでした。

城山の麓、搦め手口には立ち上り門がありました。



薬医門形式のこの門も天守と同じ現存です。

建設された正式な年代は判っていないようですが
城郭全体の大改修が行われた寛文年間
(1661年 - 1672年)と推定されているようです。


これで、2時間程掛けた宇和島城の散策を終えました。
登城する前は現存天守のお城というイメージが
強かったのですが、実際に訪れてみると
戦国期の山城の雰囲気が残るお城でした。

深い木々の間にある石垣が印象的でした。



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