五稜郭
Fort Gyokaku, Japan


登城日:
2008. 11. 24







【五稜郭概要】


五稜郭は幕末の日本開国に伴って
築かれた西洋式の城郭です。


幕末の1853年(嘉永6年)に
アメリカ合衆国のペリー総督の来航を契機に
1854年(安政元年)に日米和親条約が締結されました。

この条約で下田(静岡)と箱館が、
アメリカの要求に基づいて開港された為、
幕府はこの地の統治を目的に箱館奉行所を設置します。

この箱館奉行所は当初は函館山の山麓に建てられましたが
その移築と防御強化の目的で徳川家定の命により
洋式軍学者の武田斐三郎が設計し、1857年(安政4年)から
工事を始め、1866年(慶応2年)に落成しています。

当初、箱館奉行所が建てられた
元町界隈の様子はこちらです。





五稜郭は、大砲による戦闘に備えたヨーロッパ式の
稜堡式の築城様式を採用しています。

稜堡式は、死角がないように城壁から
外に突き出した稜堡が築かれ、
大砲の衝撃を緩める土塁を巡らしたものです。

五稜郭では星型に堡を設け、
その外側に半月堡を築いています。

しかし、予算不足もあり半月堡は一箇所しか作られず、
また大砲の標的になる箱館奉行所を内部に建築するなど
軍事的には中途半端な築城になってしまったようです。


戊辰戦争が勃発し、新政府軍に押された旧幕府脱走軍は
1868年(明治元年)10月、軍艦8隻とともに箱館に入り、
この五稜郭を占拠し、箱館戦争が勃発しました。

しかし、7ヶ月後には新政府軍に降伏し、
戊辰戦争が終結しました。




この五稜郭には1991年の夏に訪れましたが
2011年11月にも再訪しています。
その時の様子を紹介します。



【五稜郭へのアクセス】


函館駅前から湯の川行きの
路面電車に乗り、五稜郭公園前下車。

五稜郭公園前から徒歩15分程です。

函館駅前からの路面電車は
日中約5分毎の運行です。

函館市交通局のHPはこちらです。
函館の路面電車の乗車記はこちらです。






【五稜郭登城記】



五稜郭タワー
Sep. 26, '10

一の橋から半月堡へ
Sep. 28, '10

二の橋から箱館奉行所跡へ
Sep. 30, '10

五稜郭の土塁を巡って
NEW ! Oct. 03, '10

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五稜郭タワー


函館駅前からの路面電車を、
五稜郭公園前で下車し、北に向かう道を
歩いて五稜郭へ向かいました。

函館市交通局の路面電車の乗車記は
こちらです。


ビルの建ち並ぶ五稜郭公園前の
電停あたりから、次第に景色が開け、
五稜郭タワーが見えてきました。



五稜郭タワーは1964年(昭和39年)に
五稜郭築城100年を記念して建てられました。

当初は高さ60mのタワーでしたが、2006年4月に
高さ107mの現在のタワーが完成しています。

高さ86mと90mの位置に展望台があり
五稜郭を一望する事が出来ます。


五稜郭を訪れる前に、
このタワーに上ってみました。

五稜郭タワーの展望台からの眺めです。



土塁や堀で幾重にも囲まれた
五稜郭の様子が一望出来ました。
手前に見えるのが唯一設けられた半月堡です。

当時の五稜郭の模型もありました。



五稜郭の城郭の中に、
いくつもの建物があった事がわかります。


そして、五稜郭タワーからは
函館の街の様子も一望できます。

これは函館の北の様子です。



函館に北には雪を抱いた
七飯岳の山裾が見えていました。
晴れていれば、この左手に
端正な駒ケ岳が見えると思います。

そして、南側(写真左)の函館山方面と、
西側(写真右)の函館湾の様子です。



この展望台のフロアーには
土方歳三の像もありました。



土方歳三は旧幕府脱走軍の一員として
この五稜郭に立て篭もっていました。

1869年(明治2年)5月12日、箱館の街が
新政府軍によって解放されると、
五稜郭を出て新政府軍に向かい
35歳の生涯を終えています。

土方歳三・終焉の地はこちらです。


五稜郭タワーの眺望を楽しんだ後に
五稜郭に向かうと、その手前に
箱館戦争慰霊塔がありました。



慰霊塔に手を合わせると、
いよいよ五稜郭です。



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一の橋から半月堡へ


五稜郭タワーを下り、箱館戦争慰霊塔を
拝んだ後に、五稜郭に向かいました。



半月堡の周囲に築かれた堀に
架かる一の橋の手前に立派な
城址碑が立っていました。

この城址碑の先に架かる
一の橋を渡ると半月堡です。

一の橋から眺める五稜郭外堀と
二の橋の様子です。



半月堡は五稜郭の南に築かれています。
半月堡の周囲はすべて堀に囲まれています。
その半月堡を取り囲む堀です。



半月堡は土塁と石垣の
二重の構えになっていました。



残雪が積もる土塁です。
内側の傾斜が緩くなっていました。

この内側には整然と詰まれた石垣が続いていますが、
本来、稜堡式では大砲の衝撃を緩めるために
石垣は使わなかったそうですが、厳冬の地・箱館では
土塁が凍結してしまい、止む無く石垣を用いたそうです。

石垣の上から望む二の橋です。



二の橋は半月堡から五稜郭へと架かる橋です。
五稜郭を囲む堀の向こうに石垣が見えていました。



半月堡から二の橋を渡り、
いよいよ五稜郭へと向かいました。





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二の橋から箱館奉行所跡へ


二の橋から眺めた五稜郭を取り囲む堀の様子です。



二の橋を渡り終え、五稜郭に入ると
3m程の高さの石垣が両側に続いていました。
橋からまっすぐ進められるように
石垣と石垣の間は通路となっていました。



この構造では、二の橋を渡った敵を
防ぐことが出来ないのですが、
石垣の間の通路の部分を抜けると
正面に石垣に囲まれた土塁があるので
そこから敵を狙う構造になっていたのでしょうか。

五稜郭の石垣の上から眺めた内部の様子です。



五稜郭は構造は軍事要塞ですが、
内部にこの地域を収める政庁だった
箱館奉行所が作られていました。

大きな屋根のところが箱館奉行所跡です。
箱館奉行所は、箱館戦争終結の2年後の
1871年(明治4年)に解体されています。

箱館奉行所跡に向かう途中に、五稜郭の
設計をした武田斐三郎氏の顕彰碑がありました。




この碑を過ぎると箱館奉行所跡があります。

2008年に訪れた際には復元工事の真っ最中でしたが
約3000平方メートルにおよぶ箱館奉行所の
およそ1/3が4年間の工期で復元され
2010年7月29日にオープンしています。



復元された箱館奉行所の公式HPはこちらです。

軍事要塞だった五稜郭に政庁の建物が
あったというのはいささか不釣合いです。
実際、箱館戦争の際にはこの奉行所の
望楼が大砲の照準になってしまったそうです。


箱館奉行所の復元現場を過ぎると
兵糧庫が建っていました。



この兵量庫は1864年(元治元年)に
五稜郭が築城された当時のものだそうです。
当時は奉行所や兵量庫以外にも土蔵や
厩舎など多くの建物が建っていました。

兵量庫の先には大砲が設置されていました。



奥にある短い大砲がブラッケリー砲で、
1866年にイギリスで製造されています。
全長は2m55cm、重量は2,500kgです。

手前は1860年にドイツで製造されたクルップ砲です。
こちらは全長2m85cmn重量は1,000kgです。

両方とも旧幕府軍の大砲なのですが、
実物の大砲を見ると当時の
緊張状態が伝わってきました。



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五稜郭の土塁を巡って


兵量庫や大砲が展示してある一角を抜けると
五稜郭を取り囲む土塁が見えてきました。



土塁に向かう途中、城内の区割りと思われる
低い土塁と石垣がありました。



これは当時のものでしょうか。
石垣は城内の区画を結ぶ門跡と思います。

残雪の城内を抜け、土塁に上ってみました。



土塁の外側には堀が築かれていますが
堀との間には帯曲輪のような
幅20m程の余地がありました。

土塁上の様子です。



土塁の上は幅3m程の通路になっていて、
城内側に桜の木が植えられています。

5つの稜堡のうち、北西に突き出した稜堡の
先端から振り返って眺めた五稜郭タワーです。



稜堡の先端からは死角なく
五稜郭の外側が眺められます。

写真右手遠くに函館の街の向こうに
函館山が見えていました。

北西の稜堡を過ぎると函館の北に
聳える山々が見えてきました。



訪れたのは11月下旬でしたが
既に寒々とした雪景色です。
この日も五稜郭は冷え切っていました。

五稜郭の西側の土塁をほぼ1/4周し、
北側の出入り口の三の橋に辿り着きました。
ここは箱館奉行所の復元工事の為に
立ち入り禁止になっていました。


ここで土塁を降り、再び
五稜郭の城内に戻りました。

箱館奉行所跡の東側の
稜堡の内側の様子です。



大砲を引き上げたのか、稜堡の内側から
土塁へスロープが続いていました。


そして五稜郭の城内の様子です。



城内には牡丹花壇もありましたが
初冬の五稜郭は訪れる人も少なく
ひっそりとしていました。



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