赤穂城
Akou Castle, Japan


登城日:
2008. 01. 03






赤穂城は忠臣蔵(元禄赤穂事件)で名高い、
浅野氏が藩主だったお城です。

赤穂は1600年(慶長5年)に姫路城主・池田輝政の弟、
長政が領主として赴いていたようです。
1615年に赤穂藩が作られ、岡山藩主・池田忠継の
弟・政綱が初代藩主として入封しています。

名高い浅野氏が赤穂藩主となったのは
1645年(正保2年)の事でした。
浅野長直が常陸国笠間藩から
5万3千石で入封しています。

浅野長直は赤穂藩主となった後、
赤穂城の築城に取り掛かります。
元和の一国一城令の後に
新たにお城が築かれるのは
稀なケースだったと思います。

築城まで13年の年月を費やし
1661年(寛文元年)に完成しています。

地図はこちらです→ Mapion

赤穂城は南に瀬戸内海に望む位置に築かれ、
満潮時には海水が石垣まで迫っていたそうです。


浅野長直の築いた赤穂城は、
甲州流軍学者の近藤正純の縄張りで、
山鹿素行も築城に関わったそうです。

縄張りは本丸の周囲を二之丸が囲む輪郭式、
その北側に三之丸が二之丸隣接する梯郭式と、
珍しい縄張りになっています。





天守こそ築かれなかったそうですが、
10の隅櫓、12の門があり、5万3千石の
石高にしては豪勢なお城でした。
この為、赤穂藩は苦しい財政が続いたようです。

赤穂城址には以前、高校があったのですが
その高校を移転し、江戸当時の様子を
復元化する大掛かりな工事がなされています。

いつの日にか江戸時代の赤穂城の様子が
再現されるかもしれません。


その赤穂城に2007年1月に訪れました。
その時の様子を紹介します。



三之丸
Feb. 26, '09

大石神社
Feb. 23, '09

二之丸
NEW ! Feb. 28, '09

本丸



"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る







三之丸


赤穂駅から花岳寺に立ち寄り、
南に向かって歩くと、お堀と
立派な石垣が見えてきました。



赤穂城三之丸のお堀と石垣です。

赤穂の街の様子は
こちらです。

お堀に沿って東に向かうと
大手東北隅櫓と大手門に辿り着きました。



1955年(昭和30年)に復元された隅櫓と
大手門の様子は、とても絵になります。

木橋を渡った先に高麗門がある大手門。
この大手門の枡形もしっかり残されています。



当時は石垣に櫓門が聳えていた事でしょう。

この枡形の石垣を抜けると、
道の両側に長屋門が建っていました。



左は大石内蔵助一家が住んでいた屋敷、
右が甲州流軍学者、近藤源八邸跡の長屋門です。
赤穂城では城郭内の三之丸には家臣達の
邸宅が建ち並んでいたようです。

こちらは片岡源五右衛門の邸宅跡です。



片岡源五右衛門は浅野内匠頭の寵臣で、
浅野内匠頭が刃傷に及んだ際も
供待ちしていたそうです。
そして、切腹する直前の内匠頭の姿を
見ることを許されたそうです。


この片岡源五右衛門邸跡の向かいには芝生が広がり、
その向こうに二之丸門跡と二之丸堀が見えていました。



これの二之丸堀の奥に赤穂城の
東の入り口、清水門があります。

片岡源五右衛門邸跡から大石邸の方に
少し戻ったところを東に向かいます。
清水門に向かう途中にも家臣の屋敷跡がありました。



ここは坂田式右衛門の邸宅跡で、
武家屋敷公園として整備されていました。
赤穂城では、城の守りの為に重要な門の近くに
家老格の家臣の屋敷が配置されていたそうです。

その向かいの空き地は奥野将監邸宅跡です。



奥野将監は大石内蔵助とは親戚筋にあたり、
浪人となった旧浅野家臣をまとめていましたが、
吉良上野介への遺恨を晴らす事ではなく
浅野家再興を目的にしていたので
吉良邸討ち入りには参加しなかったそうです。

そして、清水門と二之丸東北櫓台の石垣です。



清水門を抜けると幅の広い堀に
土橋が続き城外へと続いています。

城郭図ではこの堀の先に舟入の文字が見えます。
当時は、この堀が海につながり、船がこの近くまで
入り込んでいたのでしょうか。


清水門跡から一旦片岡源五右衛門邸跡に戻り、
今度は西へと向います。

左手は整備工事の真っ最中で、
復元中の櫓台も見えています。



二之丸北隅櫓台と思います。
将来は櫓も復元されるのでしょうか。

道の両側には家臣の屋敷跡が続いています。

大石瀬左衛門、寺井玄渓、磯貝十郎左衛門、
神尾専右衛門、田中貞四郎、間瀬久太夫と
赤穂浪士の名前が連なっています。

写真は磯貝十郎左衛門の邸宅跡です。



屋敷跡は整地されていて
大石神社が見えていました。



これらの浅野内匠頭の家臣達の中には
奥野将監の様に討ち入りに
参加しなかった人も含まれています。

これらの屋敷跡は、浅野家改易の後は
その後の藩主となった森氏の家臣たちが
住んでいたのでしょうか。


やがて赤穂城の西の端に辿り着きました。
ここには塩屋門があります。

塩屋門は赤穂城の搦手口にあたります。
塩屋門も枡形門になっていて、
守りを固めていました。



写真は塩屋門の石垣と、その奥に
三之丸西隅櫓の櫓台が見えています。
また塩屋門には太鼓櫓があり、
城内の家臣らに時を告げていたそうです。

1701年(元禄14年)3月19日、
江戸城での浅野内匠頭の刃傷事件と
切腹を知らせる早瀬藤左衛門、萱野三平や
原惣右衛門と大石瀬左衛門らの早使は
この塩屋門から城内に入ったそうです。

また4月19日に城請取りの備中足守藩主・
木下肥後守の軍勢もこの塩屋門から
入城したそうです。


江戸から早籠に乗って駆けつけた
早瀬藤左衛門、萱野三平が息を整えた
息継ぎ井戸の様子はこちらです。

足守の様子はこちらです。




"赤穂城"のTopに戻る





二之丸


大石内蔵助邸跡から片岡源五右衛門邸跡の方に向かい、
左手にお堀が見えるあたりが二之丸門跡です。



当時この辺りには口幅3間1歩、
高さ二間の櫓門が建っていたそうです。

浅野長直公が召抱えた軍学者・山鹿素行が
虎口の縄張りを変えたそうです。

その山鹿素行の像が近くにありました。



山鹿素行は、赤穂藩から離れた後に
著書が幕府に咎められ、10年間ほど
赤穂で配流されたそうです。
配流といっても、銅像の建っている二之丸にあった
大石頼母助の屋敷の一角に住んでいたようで、
配流中にいくつもの著作を残しているそうです。


二之丸は、本丸をぐるりと取り囲んでいますが
三之丸と、本丸に挟まれたところは幅が狭く
二之丸を過ぎると、すぐに本丸門がありました。



本丸門は1996年(平成8年)3月に、6.7億円をかけ、
昔どおりの工芸によって復元されています。

立派な石垣の上に白い土塀が続き、
高麗門そしてその背後の櫓門と
当時の様子が伝わる堂々とした門ですが、
2008年1月に訪れた際には、お正月休みで、
その門は硬く閉ざされていました。

本丸はまたの機会に再訪することとし、
本丸の周囲を囲む二之丸の敷地を
ぐるっと巡ることにしました。

本丸門に向かって右側は二之丸庭園が
あったところです。
池の周囲にいくつもの東屋が建っていた庭園跡も
復元工事で立ち入りが出来なかったので、
まずは本丸門から左手、東の方向に進みました。
本丸の東北隅櫓台と内堀の様子です。



赤穂城の本丸は何箇所にも
折り曲がった箇所がありますが、
本丸門からこの東北隅櫓までは
本丸の石垣も内堀もほぼ直線になっています。

東北櫓で南に折れる堀に従って
歩いていくと厩口門がありました。



二之丸から本丸へは、本丸門の他に
東側のこの厩口門と南側の刎橋門の
三箇所あったようです。

赤穂城本丸の東南角の隅櫓台です。



二之丸の、この櫓台の南には
東仕切り門という表示がありました。
城郭図によると西側にも仕切り門があり、
二之丸は南北に区画が区切られていたようです。

そして再び角を曲がると、赤穂城の南側に出ました。



本丸への刎橋門の土橋が内堀に伸びています。
ここも今は石垣を整備した段階ですが、
やがては橋が復元されるのでしょうか。

二の丸のこの辺りは幅が広がっています。



当時は色々な建物が建っていたと思いますが、
今は広い空間が広がっていました。
その広場を西に進み、西南隅櫓台と内堀の様子です。



二之丸の西側一体は広大な範囲で復元工事が
行われていて、安全柵で仕切られていました。

二之丸の南の端には米蔵がありました。



発掘調査の後、盛り土で当時の礎石を保護した上に
当時の米蔵に似せた休憩所を建てています。

その米蔵の南には水手門がありました。



当時の赤穂城は葦の広がる干潟に面していて
満潮の時にはお城に船を着けて、
物資の搬入が出来たそうです。

この水手門には船着場の雁木や
突堤なども復元されているそうです。


赤穂城本丸を取り囲む二之丸は
本丸の石垣をぐるりと巡る事が出来ます。
お堀と石垣の様子を眺めるうちに
予定の時間をオーバーしてしまう程でした。



"赤穂城"のTopに戻る

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る