高槻城
Takatsuki Castle, Japan

登城日:
2010. 10. 24

【高槻城 概要】

高槻城が記録に登場するのは14世紀前半に
入江左近将監春則が居城とした時だそうです。

その後、戦国時代には入江氏の居城だったようですが
1569年(永禄12年)に和田惟政が城主となり、
1573年(元亀4年)には高山飛騨守・右近父子が
和田氏を滅ぼし城主となっています。

高山右近は1585年(天正13年)に船上城に入り、
その後高槻城は、豊臣の直轄の城になりました。

船上城の登城記はこちらです。

関ヶ原の戦い以降は徳川の直轄地となりますが、
1649年(慶安2年)に永井直清が城主となり、
高槻藩が置かれました。

その後、明治まで永井氏が高槻の地を治めました。

城郭は、大坂の陣の後の1617年(元和3年)に
大きな改修を受け、近代城郭になったようです。


中央に本丸を配し、その周囲を水堀が囲み、二の丸、
厩曲輪、帯曲輪などがその周囲に配置されています。

大坂の陣の後に城を整備するのはちょっと奇異な
感じがしましたが、高槻城の他にも、尼崎城と
明石城も築かれていて、西への護りを固めたようです。

2010年10月に、この高槻城址を訪れてみました。
その時の様子を紹介します。

【高槻城へのアクセス】

高槻城は、阪急電車・高槻市駅の
南、約1km程のところにあります。
徒歩で、高槻城址公園まで約10分程です。

またはJR高槻駅からは1.5km程、南東にあります。
こちらは徒歩で約15分程です。

【高槻城登城記】

2010年10月24日、船上城を訪れた後、
神戸の街を散策し、高槻に来ました。

JR高槻駅から南下し、阪急電車の線路を越え
更に南下すると、理安寺、光松寺、本行寺と
いくつもお寺が並ぶ一角があります。


撮影: 2010年10月

この辺りが高槻城の鬼門に当たり、
寺町となっていた様です。


撮影: 2010年10月

このうち、本行寺の門は高槻城の高麗門だったようです。
高麗門は桝形形式の門のうち、外側の一の門に
用いられる門ですが、この門がどこにあったのかは
記されていませんでした。

この本行寺は高槻城の外堀に面していた様で、
堀を渡った三の丸の北の端あたりの位置に、
「しろあと歴史館」が建っていました。


撮影: 2010年10月

ここには高槻城の歴史や、当時の城郭の様子を
伝える展示があり、城跡を訪れる前に
立ち寄る事をお勧めします。



撮影: 2010年10月

江戸時代の高槻城と城下のジオラマと
石垣の造りを示した模型です。

「しろあと歴史館」を訪れた後は、前の道を
東に向かい、次の角で南に折れました。


撮影: 2010年10月

この道の先に当時の東大手門跡があります。
ちなみにこの道は当時のお堀端の道で、
右手に堀が広がっていました。


撮影: 2010年10月

堀端跡の道に従い南下すると、
住宅地の中に東大手門跡がありました。

高槻城には東・南・北と3つの大手門があったようですが、
この東大手門が表門にあたる正規の大手門だったそうです。

東大手門から50m程南に行ったところに
八幡大神宮がありました。


撮影: 2010年10月

創建年月は不明ですが、応仁天皇の像と白羽の矢が
この地に流れ着き、それを祀ったのが始まりだそうです。

江戸時代には藩主の信仰も篤く、1615年(元和5年)には
松平家信が社殿を寄進したと伝わるそうです。

小さな八幡大神宮からいよいよ
高槻城内に入りました。


撮影: 2010年10月

高槻城の三の丸の一部が
城址公園として整備されています。

城址公園には江戸時代中期の町家も
移築保存されていました。


撮影: 2010年10月

当時、この笹井家は干物屋、瀬戸物屋
そして、米屋を営んでいたそうです。

そして天守台もありました。


撮影: 2010年10月

しかし、残念ながらこの天守台は模擬の様です。
高槻城が廃城となったのは、1871年(明治4年)の事でした。


撮影: 2010年10月

廃城になった後、石垣が鉄道建設のために使われたようですが
その他の遺構もかなり壊されてしまっていたのでしょうか。

堀を彷彿とされる池がありましたが、
城址の遺構はありませんでした。

その代わりと言ってはなんですが、
高山右近の像が立っていました。


撮影: 2010年10月

高山右近は、1573年(元亀4年)から1585年
(天正13年)まで高槻城を居城としていました。

キリシタン大名だった右近は、城のすぐ近くに
教会を建て、領民に布教を行ったそうです。
彼が城主だった時代、7割を超える領民が
キリスト教徒になったそうで驚きました。

高山右近が後に城主となった
船上城の散策記はこちらです。

高槻城址公園の西側には槻の木高校がありました。

この槻の木高校が当時の本丸跡にあたります。


撮影: 2010年10月

城址が学校となっている例は多いのですが
この高槻城もそうでした。

学校の敷地の北側に、土塁跡のような
盛り上がったところがあったのですが、
これは当時からのものでしょうか?


撮影: 2010年10月

この北側には野球場がありました。
この野球場が二の丸跡になります。


撮影: 2010年10月

当時は本丸や二の丸は広い堀に囲まれており、
きっと水に浮いているような光景だった事でしょう。

野球場の北東の端、道路の向こうに
商工会議所のビルが建っています。
その前に高槻城の石垣の石がありました。


撮影: 2010年10月

本丸、二の丸と三の丸との間にあった
厩曲輪の桝形門の石垣だったそうです。

案内版には、石が採られた場所が書かれて
いましたが、よくそこまで分かったものと驚きました。

この近くには高山右近が建てた教会跡の碑や
江戸時代の高槻城主に信仰された
野見神社がありました。


撮影: 2010年10月

こちらは、高槻の街の散策記で紹介しようと思います。

高槻の散策記はこちらです。

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