田丸城
Tamaru Castle, Japan


登城日:
2009. 1. 12







【田丸城概要】


田丸城は1336年(延元元年)に後醍醐天皇が
吉野に還幸された際に、北畠親房が
南朝の拠点として築いたお城です。

田丸城は、伊勢神宮の西、約10km程のところ、
三重県度会郡玉城町に位置しています。




伊勢神宮の神領を有する田丸城は
南朝・北朝の攻防の焦点となり
激しい攻防戦が繰り広げられたそうです。

南北両朝の統一後は北畠氏の居城になりました。
この頃の田丸城は玉丸城と呼ばれていたようです。


その後、室町末期に織田信長が伊勢攻略した際に
次男の織田信勝を北畠氏の後継ぎ養子とし、
1575年(天正3年)に信勝は大河内城から
この田丸城に入城します。

この時、信勝は田丸城を大改築し、三層の
天守を築き、今に残る城郭を整えたそうです。





1600年(慶長5年)には稲葉道通が田丸城主となり
藤堂氏領を経て、江戸時代は紀州藩主・
徳川頼宣公の家臣・久野宗成が城主となり、
明治まで久野氏が代々城主を務めました。

田丸城は1869年(明治2年)に廃城になりました。


この田丸城には2009年1月に訪れています。
その時の様子を紹介します。



【田丸城へのアクセス】


田丸城はJR参宮線の田丸駅の西400m程の所です。

田丸駅からゆっくり歩いて10分程です。

参宮線を走る快速「みえ」の
乗車記はこちらです。





【田丸城登城記】



田丸駅から代官屋敷
Apr. 10, '11

富士見門から北の丸
Apr. 13, '11

本丸
Apr. 16, '11

二の丸
NEW ! Apr. 21, '11




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田丸駅から代官屋敷


田丸城の最寄駅の田丸駅は、参宮線の途中駅です。

参宮線には名古屋と鳥羽を結ぶ快速「みえ」が
走っていますが、田丸駅は通過してしまい、
日中は1時間に一本程の頻度で
普通列車が停車する小駅です。

快速「みえ」の乗車記は
こちらです。




田丸駅前の様子です。



この田丸は初瀬街道が熊野街道と合流し、
伊勢神宮に向かう伊勢街道の途中にあり、
昔は多くの参拝客で賑わったそうです。

田丸駅から田丸城へと向かう小路の様子です。



今は参宮線もローカル線と化し、
田丸駅前も寂しげな様子でした。


この小道を歩くと、小高い丘の
手前に堀が見えて来ました。



田丸城の外堀です。

思っていた以上に立派な堀で、
周囲の景色はどことなく
お城然としてきました。

堀の内側には玉城町役場があり、
それを眺めながら堀に沿って北に
歩いていくと、大手門跡に出ました。



写真の橋が大手門橋跡です。

この大手門橋跡から城内に入ります。
町役場の裏には内堀もありました。



内堀が途絶えたあたりから更に北に向かうと、
元代官屋敷の広い敷地が広がっていました。



その一角に、三の丸奥書院が移築されていました。
この奥書院は、1677年(延宝5年)に建てられたもので、
現在は玉城中学校がある三の丸にあった建物です。



この奥書院は1869年(明治2年)に廃城になった際、
払い下げられ、農家に移築されていましたが。
それを一部復元の上で、この地に再移築したものです。


元代官屋敷から大手門跡の方向に戻り、
田丸城址碑のある二の門へと向かいました。



二の門跡の石垣は立派なものでした。

野面積みから打ち込みはぎへの
移行段階のような石垣でした。



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富士見門から北の丸


二の門を過ぎ、右手に向かう
坂道を上って行きます。



坂道の左手には一段高いところに
玉城中学校の校舎が見えていました。

坂を上りつめたところに平地があり、
その北側に窪みがありました。



蓮池跡と標識が立っています。
内堀代わりの池があったようです。

その左手には富士見門が建っていました。



富士見門は、江戸時代中期のもので
明治の廃城後に民間に払い下げられていたのを
1984年(昭和59年)にこの地に移築したものです。

当時は三の丸(現・玉城中学校の校庭)にあり、
二の丸富士見台へと続く門だったようです。

門の左右にあった長屋造りの侍溜は失われ、
ポツンと建つ門の様子はどこか寂しげでした。

この富士見門を正面に見て左手に進むと
旧三の丸に建つ玉城中学校の正門があります。



冠木門を模した木柱が建っているのが
城址に建つ学校を表しています。


ここをまっすぐ行くと本丸へと出るのですが
一旦、富士見門まで戻り、門の後ろへと
続く道を西へと向かいました。



富士見門の裏の土塁の様子です。

この土塁を越えると松林の生い茂る曲輪となり
左手の崖の一段高い所に北の丸があります。

散策路歩くと道なりに北の丸の周囲を半周し、
本丸の石垣が見えるようになりました。



上の写真の左手が北の丸、
木々の間に低く横たわっているのが
本丸を取り囲む帯曲輪の石垣です。

その石垣に辿り着くと帯曲輪の石垣と
北の丸の間が空堀になっていて、
散策路はその空堀の間を進むようになりました。



右手、帯曲輪よりも一段高い
本丸の石垣を眺めながら空堀を歩き、
階段で本丸と北の丸の土橋に上りました。

下の写真は、本丸と北の丸間の
反対側の空堀の様子です。



石垣でしっかり区画され、
近世城郭の佇まいです。

土橋から北の丸を眺めた様子です。



北の丸の周囲は低い土塁が巡らされ、
その中には稲荷神社がありました。



トンネルのように続く赤い鳥居を
くぐったところにある神社の拝殿です。



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本丸


北の丸から再び土橋を渡り、
今度は本丸へと向かいました。



北の丸から本丸を眺めた様子です。

本丸は、石垣が幾重にも張り巡らされ
重厚な造りになっていて、特に東側の
本丸虎口の石垣は立派でした。



この本丸虎口は2003年(平成15年)に
発掘調査が行われています。

江戸中期の宝暦年間を挟んで大きく
二つの時期の遺構が見つかったそうです。

この本丸虎口には17世紀には
門も建てられていたようです。

虎口を抜けて本丸へと至りました。



広い本丸の北側には
天守台も築かれています。

田丸城の天守は、1575年(天正3年)に
織田信勝によって建てられましたが、
1580年(天正8年)には、火災によって
焼失してしまっています。



田丸城の天守台は、扇形に広がる階段と
穴蔵と呼ばれる、石垣で囲われた
天守の地下部分に特徴があります。

天守台から本丸虎口を眺めた様子です。



こちらは穴蔵越しに、田丸城の
西側を眺めた様子です。



田丸城の西側には田圃が広がり、
遠くのなだらかな山々の眺めがとても綺麗でした。



天守台からの素晴らしい景色を
眺めた後に二の丸に向かいました。



本丸の南側、二の丸へと向かう虎口の石垣です。
当時はここにも門があったのでしょうか。



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二の丸


本丸の南側に二の丸があります。

二の丸へと向かう土橋から、
二つの曲輪の間にある立派な
空堀が眺められました。



木々が生い茂る二の丸の様子です。



二の丸は、こじんまりとした曲輪で、
曲輪の南東側に二の丸虎口があります。

その近くに当時は富士見櫓が建っていました。



中央に立つ大きな木の右手が
富士見櫓の櫓台跡です。


富士見櫓の脇を抜けて緩やかな
坂道を下っていくと二の丸虎口に出ました。



二の丸虎口を抜けて振り返った様子です。

二の丸虎口にも立派な石垣が残っていました。
ここにも当時は櫓門が載っていたのでしょうか。

この二の丸虎口の石垣の下を通り、
二の丸南側の絡手口に向かいました。



二の丸虎口の石垣は見上げるような
高さで立派なものでした。


こちらは二の丸南側の絡手口の様子です。
土塁に小さな虎口が築かれていたような感じです。



この写真の様子は古城の
雰囲気を漂わせていました。


この絡手口の辺りは二の丸よりも
一段低い位置に帯曲輪が取り巻いています。



帯曲輪を奥に進み、田丸城の西側に
出ると景色が開けてきました。

本丸の下は急な崖になっていて
2段の石垣でその斜面が覆われています。



その石垣の間に先ほどの
帯曲輪が取り巻いています。

二の丸下から本丸へ向かうと、
本丸の立派な石垣が間近に見えました。



田丸城の石垣は三重県指定史跡になっています。
上の写真左側の櫓台は
惚れ惚れするような石垣でした。


田丸城は、あまり知名度のないお城ですが
その歴史や天守からの眺め、そして石垣と、
とても立派で隠れた名城と思います。



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