大田原城
Ohtawara Castle, Japan


登城日:
2010. 4. 29









【大田原城 概要】


大田原城は、那須野を流れる那珂川の支流・
蛇尾川の畔の龍体山という丘陵地に築かれたお城です。

築城されたのは戦国時代も終わりに近づいた
1545年(天文14年)、大田原資清によってです。





大田原資清はこの地を治めていた那須氏の
有力武将(那須七騎)の一人です。

1518年(永正18年)には同僚の大関宗増の諫言により
失脚し出家し、一時期は越前・永平寺に潜んだそうですが
その後復帰し、大関宗増の子・増次を謀殺し、
長男・高増を大関氏の跡を継がせています。

ちなみにこの大関高増が、大田原城の
東にある黒羽城を築城しています。

黒羽城の登城記はこちらです。

大田原城はその後、大田原氏の居城となり明治まで続いています。


大田原城は東西210メートル、南北327メートルの広さを持ち
本丸、二の丸そして三の丸の曲輪が設けられています。



この他にも北・西の曲輪などが設けられています。

この大田原城も黒羽城と同様に、関ヶ原の戦い前に
徳川家康の命により城の補強がなされているようです。

1825年(文政8年)に火災が起き翌年に
新たに城の建物が作られたそうです。
1868年(慶応4年)の戊辰戦争の際には
旧幕府軍によって攻められています。



【大田原城へのアクセス】


JR西那須野駅から東野バス
五峰行で公園前下車。

西那須野駅から公園前まで約12分です。
公園前から徒歩すぐです。



またはJR西那須野駅から東野バス
小川・馬頭線で金燈籠下車。

西那須野駅から金燈籠まで約11分です。
金燈籠から徒歩約10分です。


2010年4月に雲巌寺線のバスに乗車しています。
その乗車記はこちらです。

東野バス五峰行・馬頭行の時刻表はこちらです。





【大田原城登城記】



北曲輪から本丸へ
June 25, '15

二の丸から西曲輪
June 28, '15

大田原神社・龍泉寺
NEW ! July 01, '15



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北曲輪から本丸へ







2010年4月29日、この日は奥の細道で芭蕉が訪れた
那須の名刹・雲巌寺、黒羽城を訪れた後、
黒羽の町からバスに乗り大田原城に向かいました。

雲巌寺の様子は
こちらです。
黒羽城の様子はこちらです。


黒羽からのバスを公園前で下り、大田原城に向かいました。
その前に、蛇尾川に架かる国道461号線の橋から
大田原城のある龍体山の森です。



ここから公園前のバス停に戻り、畑の間の
緩やかな小路を歩いて、城址に向かいます。



この畑の部分も、当時は城域だったと思います。
丘陵地の杜に入ると、本丸の切岸が見えてきました。



この手前左手に北曲輪が広がっています。
本丸の北側の帯曲輪です。



しかし、北曲輪は意外に大きく、本丸と
反対側の土塁も高さが3m近くありそうでした。

この北曲輪には当時庭園があり、
また軍事訓練が行われていたそうです。

その土塁の上に乗って眺めた北曲輪です。



正面には本丸の高い切岸が迫っています。
緩やかに湾曲する北曲輪に沿って奥に行くと
窪地へと下りて行きました。



この辺りは、当時搦手口だったところです。
この搦手口からは蛇尾川が眺められました。




北曲輪を散策した後、本丸へと向かいました。
この切岸を上って本丸へと向かいました。



急な石段を上っていくと本丸の虎口に辿り着きました。
当時はここに裏門が設けられていました。



この裏門跡を通ると、広さが大よそ
100m x 50m程の本丸が広がっていました。

この日は音楽コンサートの催しが開かれているようで
大きな音で演奏が響き、生憎の天気でしたが
それを聴きに来ている人もいました。



本丸の土塁は高く6〜7mはあるでしょうか。
その土塁の上に上がってみました。



土塁から眺める大田原の町並みです。



大田原城の西に広がる市街。
当時もこの方向に城下町があった事でしょう。

土塁の上から見下ろす坂下門と門脇の三日月堀
そして旧西曲輪に設けられた消防署の敷地です。



土塁の南端にも虎口がありました。
ここが台門跡です。



当時、ここには大田原城で唯一の石垣が築かれ
重層の門が構えられていたという事です。

この台門跡を抜けて二の丸へ向かいました。



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二の丸から西曲輪








本丸から、その南にある二の丸に向かいました。
台門跡から振り返って本丸を眺めた様子です。



その脇の土塁の上には何やら
排水設備の様なものがありました。



この土塁に上ってみる事はしませんでしたが
当時は櫓門がこの土塁に載っていたと思います。

本丸と二の丸の間には堀切があり
そこを土橋で越えていきます。



堀切は、思いのほか切れ込んでいました。
広い土橋を渡ると冠水門跡を抜け二の丸に入ります。



当時の二の丸には長屋二棟と弾薬庫があったそうです。
二の丸はそれ程広くなく、そこにはコンサートの
人のでしょうか、車が数多く停められていました。

二の丸の脇には、低いながらも土塁が残っていました。



二の丸の南には、中世の面影を
残すような曲輪が続いていました。



当時はこの先に稲荷祠という
社があったようです。

今は、周囲に柵が巡らされていました。



その柵によって曲輪の先へは行けませんでした。
曲輪の先には深く切れ込んだ堀切がありました。



堀切の底は舗装され、大田原城址の西側の集落と
蛇尾川とを結ぶ道が通っていました。


この堀切を抜け、蛇尾川の河原に出てみました。



比高約25mの丘陵地の中に太田原城が眠っています。

川原から堀切に戻り、住宅地を抜けて
再び大田原城址に戻りました。



この住宅地が、当時の三の丸だったようですが
そうとは気が付かずに写真も撮りませんでした。

大田原城の西側には三日月掘が残っていました。



当時の水堀の一部です。
ここから本丸へと向かう途中に
坂下門跡があります。



坂道を上がったところからは
西曲輪跡にある消防署が見下ろせました。



この消防署と反対側の
緩やかな坂道を上って行きます。



この先で、本丸と二の丸の間に架かる
土橋を眺める事が出来ました。




この後、大田原城の北にあり、
出城の役割を果たしていたと
思われる大田原神社に向かいました。



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大田原神社・龍泉寺








大田原城の散策を終えて、その北に
ある大田原神社に向かいました。

大田原神社と龍泉寺も小高い丘の上にあり、
当時は出城の役割を果たしていたと思います。



大田原神社に向かうには、深い切通しを通る
国道461号線を跨ぐ橋を渡って行きます。

この切通しは、当時の空堀に違いありません。


大田原神社の手前には大田原護国神社があります。



鳥居の近くには、ここだけ
咲き残っていた桜の木がありました。



このページを書いているのは、
ここを訪問した5年後の2015年6月。

その間にあの東日本大震災があり、
この社は被害を受け取り壊されたそうです。



今更ながら栃木北部も被災地と思い知りました。

黒羽で訪れたお寺や町並みは
大丈夫だったのだろうかと思います。


この大田原護国神社の奥に
大田原神社があります。



創建されたのは802年(大同2年)と
歴史の古い神社です。

大田原城の築城城主・大田原資清が
城内に祠を建て、祭田百石を寄贈したそうです。



楠の大木が生い茂り、参道の
向こうの社殿は幽玄な雰囲気でした。

参道の両側に並ぶ石灯篭の中には
江州(今の滋賀県)の商人が奉納したものもあり
近江商人が北関東でも活躍した証といいます。


大田原神社の西側に龍泉寺があります。



古い歴史のあるお寺で、1494年(明応3年)に
大俵康晴が水口城を築いた際に菩提寺とし
大田原城が築かれると龍泉寺も
三の丸辺りに移されたそうです。

秋篠寺を模したと言われる本堂です。



この龍泉寺には大田原資清とその一族の
肖像画も残されているそうです。

龍泉寺を訪れた後、バス停に向かうと
先ほど通った国道461号線を跨ぐ橋の
袂に木戸のあった事を示す碑がありました。



当時、この辺り一帯に城下町が
広がっていた事でしょう。



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