黒羽城
Kurobane Castle, Japan


登城日:
2010. 4. 29









【黒羽城 概要】


黒羽城は、栃木県北部の豪族・那須氏の家臣・
大関高増が1586年(天正14年)に築いたとされています。

大関高増は大関氏と対立する大田原氏から
養子として大関氏を継いだ人物で、黒羽城の
築城以前は白旗城を本拠にしていたそうです。

秀吉の小田原征伐の際、遅参した主君・
那須資晴が所領を奪われてしまいますが、
大関高増は黒羽の地を安堵され、
江戸時代を通じてこの地を治めています。





黒羽城は、那珂川と松葉川に挟まれた
丘陵地に築かれており、城郭としては
適した場所に築かれていると思います。

大関氏が所領した黒羽の地は石高1万8千の
小さなものでしたが、関ヶ原の戦いの直前に、
上杉景勝への守りとして徳川家康が黒羽城の
修築を命じており、その縄張りはとても堅牢です。



黒羽城は南側から三の丸、本丸そして
二の丸と続く連格式の縄張りになっています。

本丸の南には馬出も築かれ、本丸や
馬出は見事な空堀で囲われています。

江戸時代には陣屋として使われた黒羽城ですが
中世の古城を利用した陣屋で、これ程立派な
縄張りを持つ陣屋は初めてでした。



【黒羽城へのアクセス】


JR那須塩原駅から雲巌寺行の大田原市営バス・
雲巌寺線に乗車し、大雄寺入口下車。
またはJR西那須野駅から東野バス五峰行で
大雄寺入口下車。

那須塩原駅から大雄寺入口まで約35分、
西那須野駅から大雄寺入口まで約40分です。
大雄寺入口から徒歩約10分。


2010年4月に雲巌寺線のバスに乗車しています。
その乗車記はこちらです。

大田原市営バス・雲巌寺線の時刻表はこちらです。
東野バス五峰行の時刻表はこちらです。





【黒羽城登城記】



三の丸(芭蕉の館)
May 28, '15

馬出から本丸へ
June 04, '15

本丸
June 07, '15

二の丸から大手へ
NEW ! June 20, '15



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三の丸(芭蕉の館)







黒羽城を訪れたのは2010年4月29日。
この日の朝に西那須野駅を出て、
黒羽の東にある雲巌寺を訪れ、
その後に黒羽城に向かいました。

大雄寺入口でバスを降り、黒羽城址に向かう途中、
藩主・大関氏の菩提寺の大雄寺に立ち寄りました。




大雄寺の様子は
こちらです。

大雄寺から北に向かって歩いて行くと
道端に黒門跡の碑が立っていました。



この黒門跡から北側が黒羽城の城内でした。
黒門跡に土塁が残っていますが、今は
特にお城跡を示す遺構は見たりません。

この黒門跡の近くに、黒羽藩城代家老
浄法寺高勝(桃雪)の邸宅がありました。

その後に建つ建物です。



芭蕉は、奥の細道紀行の際に黒羽に14日滞在し、
この浄法寺高勝邸には8泊もしています。


この少し高い位置にある浄法寺跡から
黒羽城へ向かう舗装道路へと下りていくと
黒羽藩の藩校・作新館跡の石碑がありました。



作新館は黒羽藩15代目当主大関増裕が
幕末に開設した藩校ですが、その名前は
宇都宮にある私立の高校に引き継がれています。

作新館の跡は、水田になっているようでした。



田植えを前に水が張られた水田は
溜池の様でした。


この先で道路の東側に稲荷神社があります。
小さな神社ですが、この神社の参道の両側の
土塁が当時の黒羽城の土塁という事です。



本丸への道と垂直に配置された二重の土塁は
一乗谷の朝倉氏館の入り口と出口にもあり、
お城への守りを固める工夫の一つと思います。


稲荷神社から更に北に向かうと
塀の向こうに散りかけた桜の木が見えました。



古風な門を抜けて塀の中に入ると、
「奥の細道」の黒羽の件を記した石碑がありました。



この先に、桃でしょうか、紅白の花が綺麗に咲く一画があり
この奥に芭蕉の館があるとの案内板が出ていました。



緩やかな坂道を上り、枡形の様な
入り口を抜けて芭蕉の館に入りました。



一段高いところに建つ芭蕉の館です。
芭蕉や藩主・大関氏所縁の資料が
展示されているようです。



この芭蕉の館は黒羽城の三の丸跡にあり、
建物の近くに碑も立っていました。



黒羽城三の丸跡の碑の向こうに見える石碑は
やはり奥の細道の一節を記したもので、
曾良の句がありました。

かさねとは八重撫子の名成べし


この芭蕉の館ですが、建物の一部が
石垣の上に建てられています。



しかも石垣の上に渡り廊下の様に
建物が架けられていました。

この石垣は当時のものでしょうか。
この三の丸は本丸への
アクセスになっていたと思います。



当時は、この石垣の間が埋門の
様になっていたのかも知れません。



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馬出から本丸へ







三の丸の芭蕉館の建物の下をくぐりました。



正面に大きな土塁が聳えています。
両側の石垣を抜けると、左右に
大きな空堀が伸びていました。



三の丸とその北の馬出の間の空堀です。
空堀の深さは7m程もあるでしょうか。
とても立派な空堀でした。

この三の丸から空堀に向かった正面にある
馬出の土塁に階段が設けられていました。



この急な階段を上ると馬出の郭へと出ました。
この馬出は2段に分かれていました。

 

三の丸との間の空堀も立派でしたが、馬出の
規模も大きく、黒羽城の守りの堅さが判ります。

この馬出の北側には本丸との間に
更に区画切れ込んだ空堀がありました。



深さは10mはあるでしょうか、とても深い空堀です。
本丸との間には橋が架けられていました。

この深い空堀は、本丸と馬出の間を
ぐるりと取り囲んでいます。




馬出の土塁に沿って、空堀を眺めてみました。

空堀と反対側は桃の花が咲き、
桃源郷のような景色でした。




この空堀に沿って、本丸の東側に向かいました。
舗装道路が土塁を横切っています。



この道路の東側には水掘も残っていました。



黒羽藩の石高は1万8千石だったそうですが、
その石高には似合わない立派な構です。


今度は先ほどの空堀の中を歩いて行きました。



右側の切岸が本丸のもので、左側が馬出です。
右に曲がると、先ほどの橋が遥か頭上に見えています。



これだけの規模の空堀は、なかなか見られないと思います。
これも関ヶ原の戦いの前夜の緊迫した情勢の中
守りを固めた証なのでしょう。

この空堀をさらに進むと、
本丸の西側の帯曲輪に出ました。



この右手の切岸が本丸です。

ここから馬出と本丸との間に架かる橋に戻り、
いよいよ本丸へと足を踏み入れました。






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本丸







馬出から、深い空堀に架かる橋を渡り
本丸へと足を踏み入れました。

本丸はサッカーのピッチ程の広さがあります。
本丸には御殿風の建物と模擬の物見櫓がありました。



江戸時代、この本丸には黒羽藩の藩庁となった
御本城御住居と呼ばれる居館が建っていたようです。


こちらが模擬の物見櫓です。



確か、鍵がかかっていてこの
物見櫓には上れませんでした。


この物見櫓近くにある本丸西側の
土塁の上に上がってみました。



この土塁の上には、散り果てた桜の花びらが
敷き詰められたように、一面に広がっていました。

1〜2週間前には、この土塁の桜が咲き
多くの花見客がこの本丸に訪れていた事でしょう。



この土塁から眺める那珂川対岸の様子です。
そして、反対側の土塁からの本丸の様子です。



丁度、反対側が大手口の虎口になります。


この後、御殿風の建物の北側に向かいました。



綺麗に刈られた植え込みを抜け
振り返って眺めた様子です。

この先には駐車場があり、その
向こうに土塁が続いていました。



この土塁が本丸と二の丸の境になると思います。
この土塁の上にも、桜の花びらが散っていました。



本丸の東北端にも立派な空堀がありました。



連格式の黒羽城、本丸の北には
二の丸が広がっていました。

その二の丸を目指しました。



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二の丸から大手へ




本丸から黒羽城の二の丸へと向かいました。



この二の丸には、町の体育館が建っています。
その西側には山村開発センターの建物がありました。



二の丸の碑もたっていました。



二の丸はこれらの建物の建築で、
当時の面影は失われてしまっていますが、
建物の周囲には土塁も残されていました。



この一角から本丸西側の帯曲輪に出ました。



本丸に向かう前にも眺めた
本丸の素晴らしい切岸です。



ここから本丸の北東側の空堀へと向かいました。
高い位置にある本丸から大手口へと下っています。

うねる様な空堀の底を下っていくと、
空堀を跨ぐ橋の下に出ました。



この橋は大手口と本丸を結んでいます。

堀底から橋を眺めた後に、
この大手口から本丸へ向かいました。



大手入口の虎口を抜けて本丸を目指します。

虎口を抜け、坂道を上り、先ほど堀底から
眺めた橋を通って空堀を渡りました。



この先にも再び虎口があり、
この石段を上ると本丸です。



こうして、1万8千石の石高の割に、とても
立派で守りの固い黒部城の散策を終えました。


本丸から三の丸を通り、黒羽の街を目指したのですが
その途中、黒羽小学校で当時の黒羽城の門を見かけました。



黒羽藩重臣の大沼家の侍門だったそうです。
明治になってこの地に移築されたと
案内板に記されていました。



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